にれやま
埼玉県深谷市原郷336

入口の鳥居の脇に大楡の神木がある。
鳥居から西へ向かって参道が続く。
境内は広くて静か。西側の垣の中に社殿がある。


本殿は春日造。壁面には彩色された彫刻が施されている。
本殿の周囲には、幾つかの境内社が鎮座。
右後方から、天満神社・大物主神社・手長神社・大雷神社・八坂神社、
左側に、伊奈利神社・知々夫神社・招魂社。


社殿の右側や後方は、木々の茂った林。
林の中の道には、「楡山」と刻印された旧拝殿の鬼瓦と荒神社がある。
荒神社は、他の境内社とは違って社殿が立派だ。


【御祭神】
伊邪那美命。一柱。夫の神の伊邪那岐命と共に、国土や山川草木の神々をお生みになった神。「国生み」の神。末子に火産霊神(火の神、愛宕様)をお生みになって後、鎮火の法を教え悟した神。
【鎮座地】
埼玉県深谷市大字原郷三三六番地。
旧埼玉県大里郡幡羅村大字原郷。
旧武蔵国旛羅郡旛羅郷原ノ郷村。
古くは旛羅ノ郷(はらのごおり)といっていたのを、近世に漢字を改めて原郷としたという。
【御社名の由来と御神木・御神紋】
御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。正面大鳥居の脇の楡の古木一本は、代々御神木と崇められ、樹齢七百年とも一千年ともいい、現在は埼玉県の文化財(天然記念物)に指定されている。
当社の御神紋の「八咫烏」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大きさ八尺余りの八咫烏の道案内で、大和に入ったという故事から、当社が熊野権現といわれた時代に定まったものともいわれる。
【御創立と沿革】
五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。
延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の故実やしきたりをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国旛羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなわち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といわれる。
旧原ノ郷村は、旛羅太郎道宗の再興になる地域である。旛羅郡の総鎮守、旛羅郡總社といわれ、御社名を旛羅大神ともいった。
康平年間(一〇五八〜一〇六五)、源義家の奥州征伐の時、成田大夫助高は、当社に立ち寄って戦勝を祈願したという。代々成田家の崇敬篤く、現在の社務所の屋根瓦には○に一の成田家家紋も残っている。
徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、熊野三社大権現と称したこともあった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆蒔」などともいわれた。幕末の元治元年に「旛羅郡總社」と書した幟旗が今に伝わる。
明治に入り、御社名を楡山神社にもどす。明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。
大正二年、中絶していた年越祭を再興。以来戦中戦後の一時期の中断はあったが、毎年当日は巨万の賽客で賑わい、追儺の神事や「おだまき」という地域伝来の花火(現在は普通の花火)などの行事が夜遅くまで続く。大正一二年県社に昇格。
【御社殿等】
○御本殿。春日造、欅桧楡材、造営年不祥。明治以前は屋根は桧皮葺で千木と鰹木があり、柱などに葵の紋金具があったという。
○御拝殿。明治四十三年御再建。
○神楽殿。昭和十年参宮記念造営。
○社務所。明治十年修造。元別当東学院御堂を改修したもの。
【深谷市指定文化財】
○鳥居扁額。楡材。佐々木文山筆、熊野三社大権現と記す。
○石笛(いわぶえ)。海産天然石、長さ一尺一寸。
○和琴(わごん)。
【末社】(大正元年八月合祀)
◆知々夫神社(八意思兼神・知々夫彦命)
◆伊奈利神社(豊受毘売命、大地主命・埴山毘咩命)地神社を合祀。
◆八阪神社(須佐之男命)
◆大雷神社(大雷神、伊邪那岐命・伊邪那美命)三峯神社を合祀。
◆手長神社(天手長男命)
◆大物主神社(三輪大物主命、少彦名命)金刀比羅神社、怡母神社を合祀。
◆天満天神社(菅原道真公、市杵島毘売命、岩長比売命、木花佐久夜毘咩命)市杵島神社、富士浅間神社、小御嶽神社を合祀。
◆荒神社(火産霊命・奥津比古命・奥津比売命、御穂須々美命、天津児屋根命・斎主命・武甕槌・比売命)諏訪神社、春日神社を合祀。

−『平成祭データCD』−