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東屋沼神社
あづまやぬまじんじゃ
福島県福島市飯坂町平野字明神脇1  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 陸奥國信夫郡 東屋沼神社 名神大
旧村社

御祭神
少名彦名命 大己貴命 素盞嗚命 日本武命

福島県福島市にある。
福島交通飯坂線・平野駅のすぐ東の平野に鎮座。
3号線から少し東へ入った場所。
境内入口は東向き。駅を背にして境内がある。

入口付近には、ブランコなどの遊具が並び、
駅へ続く道の横に鳥居が建っている。
鳥居をくぐって、砂地の境内に入ると、
正面に瓦葺の拝殿。
後方の垣の中に、赤と黒で美しく塗られた
入母屋造の本殿がある。

参拝は、夏休みの初日。
当社へ到着した時刻は、たぶん午後。
南空に雲が多く、先ほどまで雨が降っていた。
太陽は雲に隠れており、
青空の下だが、写真は暗め。
東向きなので、日の出の頃は良い雰囲気かもしれない。

創祀年代は不詳。

資料によると、
当初は吾妻山中の沼(雷沼、現在の五色沼か)付近にあったが
後世、大笹生村の五輪山(台山)へ遷座。
その後、現在地へ遷ったという。

当社は、社名のごとく、
東屋(吾妻山)の沼(雷沼)を祀ったとされているが、
異説として、日本武尊の東征のおり、
現社地の東南の沼付近で、東夷の族長を討ったことから
日本武尊を祀ったもの。
当社祭神の御神霊により、東の屋が治まるということから
東屋治神社と称したが、延喜式では「東屋沼」と誤られたという。

古くは東屋治神社と称していたが
いつの頃か、七松大明神と称し、
安永年間に東屋治神社と復称。
近世には余目郷二十余村の総社であった古社。
明治になって、東屋沼神社と改めた。

七松大明神と称した理由は、
吾妻山から中古七ツ松山に遷座したからとも、
祭神が七熊を討ったことによる「七ツ的」から転じたとも、
五輪山上に「七松」の古松があったからとも。

拝殿の屋根には三巴紋が付けられ、
本殿屋根には菊紋が付けられている。
一般的な紋なので、当社神紋とする自信がない。


境内入口

境内入口の鳥居

境内

境内社、石祠

拝殿

本殿

延喜式内
名神大社
東屋沼神社由緒
本社の創建年代は明らかではないが、延喜式名 神大社にして、一千年以上の古い歴史のある神 社で、少名彦那命大己貴命大国主命)、 素盞嗚命日本武尊、の四柱を祀る。
往古吾妻山雷沼のあたりに鎮座せしを、山麓の 大笹生木落山(一名御林山)に遷して当時「七松 大明神」と称し、のちにまた現在地に遷し奉った ものである。維新前は摺上川、松川の間余目 弐拾余郷の総社たりしが、明治四年辛未年郷社に 列せられ後、又明治八年乙亥年村社に列す。
古文書の中に信夫国に五つの名高い神社があ って、本社はもっとも重要なお社として「名神大社」 の格式がつき、国の行事儀式として祭典が行 なわれたと記されており、この地方を代表する 五穀豊穣、災難消除、火伏の神として祖先 傳来から由緒ある御神徳の高い神社として 奉斎されております。
参照の書史は左の如し
大日本史、延喜式神祇誌料、信夫町村誌、信達一統誌、 奥羽勸跡聞考誌、信達古語、信達風土雑記。

−境内案内板より−




延喜式とは
律令とは、孝徳天皇の御代に中大兄皇子を皇太子とし て、大化元年(西暦六四五年)から大化五年につくら れた法律で、今の憲法のようなものであった。従って それを実際に行なうには施行細則が必要であった。そ れが弘仁式とか、貞観式として発せられ、それに続い て延喜式が発せられたものである。それで延喜式とは 律令の施行細則である。
この延喜式は醍醐天皇の延喜五年(西暦九〇五年で 今から一〇八一年前)に左大臣藤原時平らにその編纂 を命じられた。ところが、日本全土の神社の調査研究 をしているうちに、時日が過ぎて関係者は大方死亡し てしまった。それで醍醐天皇は、延長三年(西暦九二 五年)さらに藤原清貫らに命じられて、その編纂を続 行せしめられた。延喜五年とり二十三年ほど続行して、 延長五年十二月(西暦九二七年で今から一〇五九年前) 時平の弟左大臣藤原忠平らが、ようやく延喜格式を天 皇に奉って制定されたのである。延喜式は五十巻から 成り、第三巻十の神名式「神名帳」に記載されている 神社を延喜式内社という。従って当東屋沼神社は、少 くとも一千年以上古い歴史のある神社で国の行事儀式 として祭典が行われたものである。
昭和六十一年四月
延喜式内
名神大社
東屋沼神社


−拝殿額より−




福島市平野にある東屋沼神社は、素盛鳴命大己貴命少名子彦那命日本武尊を祀る。東屋沼神社は飯坂線平野駅東側、旧入江野明神脇にあり、社殿は東向きに建てられている。
古い飯坂道の平野六角から山形へ向かう街道を西へ行ったところにある。この付近には平安時代の土師器や須恵器片が散布する北遺跡があり、また中世の岩井舘跡や板碑などの石造物がある。
東屋沼神社は古くは七松大明神などと呼ばれており、東屋沼神社の名は明治三年に復活している。
近世には余目郷二十余村の総社となり、村内外の信仰を集めた。東屋沼神社の由来については、吾妻山の信仰伝説と日本武尊の東夷征討伝説にかかわるものとがある。吾妻山の雷沼付近にあったものを移したといわれ、これと日本武尊が東夷征討の折に、この地方の族長を討ち平定したことから、日本武尊を祀り、社を建立し、現在の神社の東南にあった沼の付近で族長を討ったことから、東屋沼神社と称した、そして後にこの神社の御神霊で東の屋が治まるという意味から東屋沼神社と改称した。さらに神社の傍らに七枝の松の木があって、ここに大蛇が住みつき、鼠虫を駆除することから、この神社のお使いと称し、このことから七松大明神と呼んだという伝承や、あるいは信夫庄司佐藤氏代に七つの的を掛けて、弓のけいこをしたことから七的大明神という伝承もある。
以上のように東屋沼神社については『信達古語名所記』『信達二郡村誌』『信達風土雑記』などにその由来伝説をみることができる。いずれにしても沼による水の信仰、日本武尊の信仰、吾妻山の霊地敷信仰などが融合したものと思われ、五穀豊穣・疫病除け・火伏せ・養蚕の鼠虫除けなどの信仰が古くからあり、特に近世には信夫二十余郷の惣社となったことからも、人々の信仰が広範囲に及んだと考えられる。


−『福島県神社名鑑』−



【 東屋沼神社 (福島市)(印刷用ページ) 】

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