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多治神社
たぢじんじゃ
京都府南丹市日吉町田原字宮後2  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 丹波國船井郡 多沼神社
旧郷社

御祭神
大山咋命 天太玉命

京都府南丹市にある。
日吉駅の北東5Kmほどの日吉町田原に鎮座。

田原川に沿って19号線を進むと、
道路の北側に、境内入口の鳥居が建っている。
鳥居の右脇には「式内郷社多治神社」と刻まれた社号標。

広い砂利の参道を進むと、木々の茂った境内。
参道の鳥居をくぐり、小川にかかる橋を進むと、
綺麗に砂利を敷き詰めた、穏やかな雰囲気の神域。

境内左手よりに拝殿があり、
拝殿の後方、垣の中に二間社流造の本殿が鎮座。
本殿は、江戸時代の宝暦五年(1775)、
播州の宮大工室田仁左衛門の作。

創祀年代は不詳。

社伝では、慶雲年間(704〜708)、天智天皇第三皇子の
田原左大臣(志貴皇子、施基皇子)が勧請し、多治大明神と称したという。

式内社・多沼神社に比定されている古社。

鎮座地名が田原であり、
本来は多治(タハリ、タハル)と称していたと考えられるが、
延喜式に「多沼」とあり、鎌倉末期の棟札にも「多沼」とあることから
多治が、多沼と誤記されていた時期があるのだろう。

当社の特殊神事に、
拝殿内で農作業を実演する「御田祭」と
御旅所へと渡御する「羯鼓すり(カッコスリ)」があるらしい。

日吉町生畑にも同名社が存在するが、
そちらは寛文十年(1670)、当社の分霊を祀ったもの。

本殿の後方に四角い池があり、池の中に小さな祠。
『明治神社誌料』に、市杵社とある境内社だろう。

境内の奥にも、小さな祠。
境内右手にも幾つかの境内社が並んでおり、
天満宮・八幡宮などと記されている。
その他の境内社に関しては未調査だが、
『明治神社誌料』には、大神宮社、移殿社、仲哀社などの名が載っている。


社頭

鳥居と社号標

参道

参道鳥居

境内

拝殿

本殿

本殿

本殿

境内右手の境内社

本殿後方の池に祠

境内奥の祠

境内右手奥の境内社

境内右手の境内社

多治神社
由来
神社誌によれば、奈良時代の慶雲年間(七〇四〜七)に天智天皇 第三皇子田原左大臣により創祀された。
神階、正一位 延喜式内社(国史所載)
祭神 大山咋命天太玉命
文化財
一、本殿(京都府登録文化財)
本殿はこれまで四度建て替えられており、現在の本殿は江戸 時代の宝暦五(一七七五)年、播州の宮大工室田仁左衛門の手による。 建築様式は二間社流れ造りで、この種のものでは丹波地区で 最大級である。
一、御輿二基(日吉町文化財)
江戸時代後期の弘化二(一八四五)年、氏子の寄進で京の宮大工吉野屋 甚之凾の手により製作された(費用四十五両)
一、民俗芸能「田原の御田」(国重要無形民俗文化財)
鎌倉時代後期の徳治二(一三〇六)年、豊作祈願の奉納神事とし て始まる、毎年五月三日祭典執行後奉納される。
一、民俗芸能「カッコスリ」(京都府無形民俗文化財)
室町時代初期の応永二十一(一四一四)年、豊作感謝の奉納神事とし て始まる。毎年十月十五日までの近い土曜日の宵宮祭直後と翌 日の例祭直後、および神輿渡御の間二回奉納される。

−社頭案内板−



一、祭神 天太玉命大山咋命
二、創祀 慶雲年間(七〇四〜七〇七年)
三、文化財環境保全地区(昭和六〇年府指定)
指定地区は参道から本殿裏までの境内一帯で清流深山川を巧みに利用し、南側には巨大な岩盤が露出している。本殿前には樹高約十六メ〜トルのタラヨウの高木二本があり神々しさをかもしだしている。
四、無形民族文化財(昭和五十八年度府指定)
田原の御田(毎年五月三日)立人二人が中心となり「種まきの準備」から「田植刈取」までの稲作を模擬的に演じるもので豊作を願う芸能である。
かっこすり(毎年十月十五日)秋祭りの神輿の渡御に従い演じられるもので豊作を喜ぶ素朴な民族芸能である。
五、本殿登録文化財(昭和六十年度登録)
現在の本殿は棟札から宝歴五年(一七五五年)の建立で大工は播州三木の藤原秀忠である。二間社造りの建物で丹波地方では最大級の規模である。日吉町教育委員会

−『平成祭データ』−



【 多治神社 (南丹市)(印刷用ページ) 】

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