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多気 坂本神社
だけ さかもとじんじゃ
高知県安芸郡奈半利町字広岡3855  Zenrin Data Com Maps display !!


笹持ち陰七宝に
変わり桐


紋名は暫定

式内社 土佐國安藝郡 多気神社
式内社 土佐國安藝郡 坂本神社
旧郷社

御祭神
多気神社 武内宿禰 (阿支奈臣の祖)
坂本神社 葛城襲津彦命 (布師臣・坂本臣の祖、武内宿禰の子)

高知県の東部、奈半利町(なはり)にある。
太平洋に面して、室戸市の西側にあり、55号線から493号線へ入る。
芝崎あたりで、東の小道に進み、田畑の中を進む。
中里の集落内辺りに鳥居(上の写真)があるが、そこは御旅所。
さらに奥へ進むと森の中に境内がある。
周囲の道路から、全く見えない場所にあるのだ。

奈半利は、「野墾」の訛りだそうで、三重県名張も同様。
奈半利川の河口に出来た三角形の農地で、
神社の周囲には、山麓と平地の境に、
車勢・中里・麓など20〜30戸程度の集落が点在しており、
古代農村の姿を残している。

万葉巻3,354の日置少老の歌
なはの浦塩やくけむり夕さればゆきすぎかねて山にたなびく
土佐日記には、
九日のつとめて、大湊よりなわのとまりを追はむとてこぎいでけり
昔から交通の要所であり、古代から知られた場所だったようだ。

橋を渡って小さめの鳥居をくぐり、参道を進むと
多気神社と坂本神社の、二社相殿の社殿がある。

もともと別個の神社だったが、いつ相殿になったのか、
どちらが主なのか、全く不明。
少なくとも江戸初期には合祀されていたようだ。

『土佐国式社考』では、多気神社は阿支奈臣の祖神、
坂本神社は坂本臣の祖神を祀ると考えられているが
阿支奈臣・坂本臣が当地に居住していたかどうかについては不明。

多気神社は、昔、嶽明神とも呼ばれ、周囲の何処かの山頂にあったものか。
あるいは、古事記に云う土佐の別名「建依別」を意味するのか。
まさか、「武内宿禰」の武ってことはないだろうなぁ。

古事記の神武東征の通過地である阿岐国多祁理の宮は、
広島の安芸ではなく、高知の安芸で、
多祁理の宮は、この多気神社の辺りだという説もあるらしいが。

当社の変わった神紋は境内や社殿、鳥居にも付いていたが、
呼名はわからない。よって、とりあえずの名前を書いておいた。

入口も狭く、周囲から隔離された感じの境内だが、
参道なども綺麗に維持されており、社号標も新しい。
末社に壱岐神社(壱岐直根子命)があり、相殿に多賀社がある。
近郷の伊勢講の拠点だったそうで、神宮式年遷宮にあわせて葺替する。


社頭

入口の橋

境内入口の鳥居

参道

拝殿


拝殿前に社号標


本殿

境内社
壱岐神社かどうかは不明

 『式社考』は「重遠謂、坂本不古在何地、今併坐 多氣社中、蓋多氣坂本共一姓神、而當郡著姓之遠祖也、其坐於同社、恐非偶然矣」と二社相殿を認めてゐる。
 もともと此の神社は奈半利村の産土神であるが、二つの式内社が同一郷の氏神であつた例は餘り聞かない。
 『古社調査』に、「土俗云布師ノ屋敷跡ハ今ノ小五六(こごろく)ノ 内ナリ、坂本ノ神社ハ甚シク東山ノ麓ニアリテ何ノ頃ニカ アラン、當社ハ多氣ノ神ノ御子ト云ヲ以多氣神社ニ遷座シ 奉ルト云、小五六ハ今見ニ田中ノ字也、多氣神社ヲ去ルコト 南方六町許也、今猶布目附ノ古瓦耕作ノ中ニ得ルモノマ丶 アリ○天正地検帳ニ古五六村トアリ」とあり、六丁ほど南から、坂本社が移つ たとするが、餘りにも近いやうだ。古瓦の發見者安岡大六氏 は神宮寺ではないかと語つてゐる。

−『式内社調査報告』−



【 多気神社 坂本神社 】

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