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建武中興十五社
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第九十六代・後醍醐天皇は天皇専制の復古を目論み、 1331年、笠置で挙兵(元弘の乱)したが捕らえられ 隠岐に流された。

1333年、護良親王・楠正成の軍事行動に呼応し隠岐を脱出。 名和長年に擁けられ伯耆国船上山から朝敵滅亡の宣旨を発した。 これに呼応して、各地の武士・悪党らがいっせいに討幕の軍を起し鎌倉幕府は滅んだ。

1334年、元号を「建武」と改め、武家から天皇へと政権が奪還され、 天皇専制の「建武新政」復古となるはずであった。

だが、後醍醐天皇の手兵となった悪党らにより 宮中・王都の秩序は乱れ風紀は紊乱した。 また、多くの地方武士らは恩賞にありつけず冷遇され、 親政への不満を急速に募らせていった。

そして、わずか2年後、足利尊氏が反旗を翻し、 光厳上皇を奉じて入京し、光明天皇を即位させ、 南北両朝並立の時代となった。

この 後醍醐天皇による建武の中興は、 武家中心の社会を古代の律令国家へ戻し、天皇中心の社会へ復帰させることが目的であったが、 これは、徳川幕府の武家社会から維新によって、明治政府を樹立した 明治天皇にとっても、意味深いものであり、 建武中興に尽力した南朝側の皇族・武将は 明治になって、各地に官幣社として祀られた。

−参考 『天皇の本』 学研−

出典:吉野神宮案内板


最終更新日:2014/10/25
【 建武中興十五社 】

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