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「郷土を救った人々 −義人を祀る神社−」 甲信越地方編
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 昭和五十六年、神社新報社より発行された 「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」 という書籍がある。

 帯には、
激流渦まく水中に自ら人柱となって消えていった人々!
十年、十五年と独力山中の絶壁に水路を掘りつづけた人!
農民のため漁民のために、すすんで自らの生命を捧げた人々!
来年の種のためにと、餓死をしてまで籾を残していった人!
それらの人々に対する郷土の信仰は、この日本がつづくかぎり決して消えることがない。

そんな、郷土のため、人々のために犠牲になった人達、尽力した人達を祀る神社が地方にはある。
このページでは、「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」に載っている神社の要約などを中心に列記する。
近くを訪れた際には、一度足を運んでみたいという僕の願望のリストなのだ。

本ページは甲信越地方(山梨県、長野県、新潟県)のリストです


山梨県
稲荷神社境内 蕉園社 山梨県山梨市一町田中1153
【小島蕉園命】
 文政元年(1818)。甲斐田安家の田中陣屋の代官であった小島蕉園は、清廉の人で民に仁政を行った。退官の後は、江戸に帰って医者をしていたが生活は不遇で、妻に先立たれ生活は困窮していた。 この話を聞いた甲州の人々は、資金を出し合って慰労金を集め、江戸を訪ねたが、小島蕉園はこれを受け取らず、人々を心から饗応した。 帰国した村民たちはこれに感激し、持ち帰った慰労金で生祠に祀った。
 はじめ白山神社境内に創建されたが、水害で流出し、大正七年、現在の稲荷神社境内に遷座された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
金重明神社 山梨県笛吹市一宮町金田
【金子重右衛門命】
 文久三年(1863)の創建。寛政年間、山梨・八代郡にまたがる六十三ヶ村は田安候田中代官所の支配を受けていたが、代官所に山下治助という役人が配属された。 山下治助は悪智恵に長けた悪代官で、年貢米を測る一升桝を大きく作って不正な取り立てを行った(太桝事件)。 農民たちは苦しさの余り代官所に訴え出たが、逆に牢に入れられたり罰を受けた。 見かねた金田村の金子重右衛門、綿塚村の三沢重右衛門、熊野村の鮎沢勘兵衛をはじめ、各村の庄屋たちは協議し、資金を集めて、江戸へ直訴した。
 しかし直訴は受理されず、代表たちは投獄され、過酷な拷問の末、鮎沢勘兵衛は牢死。 金子重右衛門と三沢重右衛門は、田中日川河原に引き出されて処刑され、さらし首の上、財産を没収された。
 金子重右衛門の首は金田村風間市之丞の畑に埋葬されたが、金田村の人々によって文久三年祠に祀られ、金子の梅天神、金重大明神と崇められた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
一宮淺間神社境内 依田霊神社 山梨県西八代郡市川三郷町高田3696
【依田安清命】
 延享四年(1747)の創建。依田安清は当地の名主であった。私財を投じて村を治め、享保三年(1718)には、山口郡代と協力し高田村の水利を興し完成させた。 また、寛保二年(1742)の大水害においては、一身を挺して全村の復興に務めた。
 村人はこれを感謝し、延享四年、生前の依田安清を生祠に祀った。依田安清はその四年後に没したという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
一宮淺間神社境内 荒井霊神社 山梨県西八代郡市川三郷町高田3696
【荒井顕道命】
 安政四年、あるいは五年の創建。荒井顕道は市川大門地方の代官であった。安政元年(1854)の大地震の時、高田村は一村全滅という大被害を受けていた。 荒井顕道はこれを見かね、幕府代官所の御用金を流用して村民を救った。
 だが、このため荒井顕道は幕府に咎められることとなった。村人たちはこれに感謝し、浅間神社境内に生祠を建てて祀った。木造の祠は老朽化によって朽ち果て、明治になって石祠になったが、現在は石柱に変えられている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
長野県
山水元神社 長野県下高井郡木島平村大字上木島字向原3131
【長坂織部正重清命】
 慶応二年創建。信州木島平は昔は水不足に悩まされ農民は困窮していた。 長坂織部正重清は、単身水源地である木島奥山に入って調査し、渓流を木島平村に導くことに成功した。
 ところが同じく水不足に悩んでいた隣村の夜間瀬村はこの水源に着目し密かにこれを引き込むことを計画。木島平村との間に抗争が生じ、水源地所属の境界を巡って訴訟が提起され、 努力もむなしくついに木島平十八ヶ村が敗訴してしまった。
 そこで長坂織部正重清は江戸公儀の採決を仰ぐべく、深山に籠って証拠となる大石巨木を調査して水源地境界を究明。この間夜間瀬村民の襲撃を受けながらも、江戸へ出立。 元禄十一年五月、公儀の裁断により木島平十八ヶ村の勝訴となり水源は確保された。 ただし、この訴訟や調査に私財を投じたため長坂織部正重清の生活は困窮。八十一歳で没してしまった。 慶応二年、長坂織部正重清の偉業を称え、山水元神社に合祀された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
伊勢社境内 二斗八升神社 長野県長野市大字高田字村前2435
【助弥命】
 寛文、延宝年間、海津城主の政治は非常に過酷で、民百姓は重い年貢に苦しんでいた。農民たちは何度も減免を願い出たが聞き入れられず、 各地の名主は善光寺境内に集まって協議。助弥は一身を投じて善光寺平の百姓を救うことを決意し、中心となって幕府へ直訴した。
 その結果、幕府を事情を調査し藩主へ減免を命じた。しかしながら直訴の首謀者として捕えられた助弥は、鳥打峠の刑場にて首をはねられた。享年十八歳であったという。
 善光寺平の人々は助弥に感謝して、高田村の伊勢社に祀ったが、公儀をはばかって天神社と称するようになった。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
花井神社 長野県長野市篠ノ井小松原2453−2
【花井遠江守吉成命・花井主水正義雄命】
 昭和四十四年(1969)創建。花井遠江守吉成と子・花井主水正義雄を祀る。
 慶長年間、松代藩城代であった花井遠江守吉成は領内を巡察し、領民の為大規模な土木工事を決意。鬼無里戸隠を源流とする裾花川が、現在の長野市の東に横断乱流していたものを、中郷所九反から犀川の新流を開き、市の東南方に数千町の肥沃な水田を開発。 川中島三堰を改修し川中島一帯を良好な水田とし、さらに更級郡の南端村上・力石・上山田地域の「六ケ郷用水」を改築し千曲川水系の灌漑を計った。また北国街道の改修・新道の開削、駅通の新設など數多くの公共事業を推進し、慶長十八年に没した。
 花井遠江守吉成の子・花井主水正義雄も父の遺業を継ぎ川中島平一帯の開発・振興に力を注いだが、元和二年(1616)主君の改易に伴い、松代を去った。
 いらい、川中島平の人々は花井親子を善光寺川中島平の産業開発の基礎を築いた恩人として崇敬している。
 
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
昌言社 長野県埴科郡坂城町大字坂城8340−ロ
【稲玉徳兵衛昌言命】
 文久年間(1861〜)の創建。稲玉徳兵衛昌言は文政五年(1822)に生まれ明治五年(1872)に没した。 当時の平沢地区は荒れ果てた原野で人民も貧しかった。宿場役人であった稲玉徳兵衛昌言は、桑林による開墾を進めた。多額の私財を投じ多くの苦労と反対にあいながらも桑林試作に成功。村民の生活向上に寄与した。
 村民は稲玉徳兵衛昌言に感謝し、文久年中小祠を建立して、稲玉徳兵衛昌言を生祠に祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
新七稲荷神社 長野県小県郡青木村中挾
【平林新七命】
 明和四年(1767)の創建。江戸中期、中挾村の西上の地籍は役人が検地に入らない免除地であった。 ところが享保六年(1721)これまでの慣例を無視し検見役人が検地を強行。 組頭であった平林新七は制止したが聞き入れられず、役人を鎌で殺害してしまった。 この次第が藩主の耳に入り、平林新七は捕えられ処刑されたが、これまで通り免除地は認められた。
 没後の四十七年の明和四年、中挾村民は稲荷大明神として平林新七を祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
勇吉宮 長野県小県郡青木村字入奈良本
【堀内勇吉命】
 江戸後期の創建。文化六年(1809)六月二十七日、入奈良本の組頭であった堀内勇吉はじめ九十名の百姓らは、上田城下に押し出し、 村の庄屋親子の非違横暴と市之沢新宿の設置に反対し愁訴に及んだが、捕えられ一年間の吟味の末、堀内勇吉は永牢となり文化七年病死した。
 堀内勇吉らに義挙により庄屋は御役御免となり、百姓らの願いは聞き届けられた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
与兵衛明神社 長野県小県郡青木村字入奈良本
【増田与兵衛命】
 宝暦九年(1759)の創建。増田与兵衛は松本の殿様の御落胤だと伝えられ、松本改易の際に逃れて当地に入った人物。 天和二年(1682)、この地の庄屋は藩の割当以上の年貢を農民に課したため、村民の生活は困窮していた。 これを知った増田与兵衛は庄屋の不正を藩主仙石政明候に直訴し、庄屋は処分された。 だが、御法度の直訴であったため増田与兵衛は捕えられ死罪を命じられた。
 処刑の当日、藩主仙石候は増田与兵衛を憐れみ、処刑取り止めを命じたが、使者が到着する直前に首を切り落とされた。 仙石候は落命を悼み、祭祀料を下賜して滝仙寺に弔った。村民の尊崇篤く、宝暦九年、増田与兵衛の家の近くに祠を建てて祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
弥兵衛明神社 長野県南佐久郡小海町小海箕輪
【山口弥兵衛命】
 宝永年間の創建。山口弥兵衛は江戸・三谷町の人。宝永年間(1704〜)当地に来られ、千曲川から3か所水を取り入れて、 箕輪・芦谷・土村・宿渡・中村・本村の地域に十八町歩の水田を開墾した。これにより、小海の人々は初めて米を手に入れることが出来たという。
 一説には、開発は困難を極め、資金も不足し、人足賃の不払いから殺されてしまったとも伝えられている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
水神社 長野県南佐久郡小海町小海箕輪
【城土丈右衛門命】
 享保年間の創建。上記の弥兵衛明神社に祀られる山口弥兵衛の後を継いで箕輪地区の開発を行った城土丈右衛門を祀る水神。 しかし開発事業は捗らず、未完成のまま享保十一年(1727)に死亡してしまったという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
貞享義民社(加助神社) 長野県安曇野市三郷明盛字宮ノ北3333−1
【多田加助命ほか十三柱】
(平成祭データには多田加助ほか二十八柱)
 享保二十年(1735)の創建。貞享三年(1686)、信州安曇一帯は大凶作と悪疫流行の為、農民は悲惨な生活に喘いでいた。 領主水野家には奸臣汚吏が横行し、この惨状にもかかわらず例年に倍する租税を取り立てた。
 中萱村の庄屋であった多田加助は、農民の窮状を救うため、領内の庄屋に呼び掛け、楡村名主小穴善兵衛ら十一名と共に訴願のため松本へ行った。 多田加助らの訴願を聞き付けた農民らは松本に集結したが、奸悪な重臣は、訴願は聞き入れられると嘘を付き、農民らを解散させ、 多田加助ら十二名と家族十六名を捕え、残酷な拷問の末、場外の刑場で処刑。多田加助ら首謀の八名は磔となり、他の者も斬首された。(貞享騒動)
 多田加助らの訴願は後に達成され、税の負担は軽減された。農民たちは多田加助らの遺憾を偲び、享保二十年多田家跡に祠を建てて祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
生魂水神社 長野県下伊那郡松川町大字生田2787
【部奈団蔵宗翁命】
(平成祭データには部奈団蔵宗翁命ほか九柱)
 明治三年の創建。松川町部奈一帯は丘陵地帯にあるため湧水少なく、日常の用水にも不足した状態で、旱魃が続けば十年に一度の収穫があれば良いという状態だった。 そこで村民の有志は協議し、奥地から水を引くことを計画。ただ村民は微力であったため思うように水が引けず、 やむなく弘化元年(1844)六鹿村鵜伺沢から水を引くことを決意し、水年貢を払って中沢川・前沢川の水を貰い受けることにしたが 途中の堀抜工事が難航し、筆舌に尽くせない苦労の末、積年の夢であった水を手に入れた。
 明治三年、村民はこの引水工事に尽力した部奈団蔵宗翁および協力者達の偉業を讃え、祠を建立して祀った。昭和二年、他の祠十社の神霊と合祀し現在地に遷座した。  
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
宗吾大明神 長野県飯田市竜江
【猪兵衛命】
 大願寺の裏手に「宗吾大明神」として祀られている。安政二年(1855)信州伊那谷で起こった百姓一揆の首謀者・猪兵衛を祀ったと伝えられる。 「宗吾大明神」という名前は、全国的に有名な千葉県佐倉の義民・佐倉宗吾郎に託したものか。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
新潟県
戸河神社 新潟県佐渡市下相川322
【戸河藤五郎命】
 慶長六年(1601)創建。永禄年間(1558〜)当時何の産業も無かった相川において炭作りの技術を村民に教え、佐渡炭産業を振興した戸河藤五郎を祀る。 藤五郎権現、戸河権現、下相川神社と社号を変え、明治四十一年戸河神社と称されるようになった。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
諏訪神社境内 勘五郎神社 新潟県新潟市江南区曽川甲314
【堀勘五郎命】
 昭和六年(1931)の創建。慶長の頃、新潟港に注ぐ信濃川は堤防決壊による水難で米の収穫が得られず、農民は困窮していた。 新発田藩は堤防工事を進めたが三年経っても完成せず、収穫は皆無の状態となった。 庄屋であった堀勘五郎は、見るに見かねて新発田藩主と交渉し、自ら工事の指揮をとり、これを完成させた。 さらに曽川の治水事業を成功させ、さらに田圃の排水にも工夫して他領地の土地をつぶして堀を開くという難事業も成し遂げた。 その後、寛永十四年(1638)には、苗代新田を開墾するなどの多くの功績をあげた。
 ところが、これらの大事業には一庄屋の私財では足りず、新発田藩の家中から多額の借財をし、村の有力者の印鑑を借用証文に使用したことが発覚。 藩則令によって、堀勘五郎は他国移任を命じられ追放された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
物部神社境内 藤源神社 新潟県佐渡市小倉乙618
【藤沼源左衛門命】
 嘉永五年(1852)旧八幡神社境内に創建。昭和三十二年、神社統合により物部神社境内に遷座した。
 藤沼源左衛門は佐渡代官として、宝暦三年(1753)八月来島。 就任当時全島不作が続き、宝暦六年には凶作により数百人の餓死者が出る状態だった。 この惨状に心痛めた藤沼氏は幕府に要請し租税減免の措置をとり貧民救済に専念。 さらに、飢渇人の田地の植付人足を全島から集め耕作地の維持に努めた。 その恩情を偲び村人によって建立された。
参考:物部神社境内由緒書


最終更新日:2014/12/03
【 郷土を救った人々 −義人を祀る神社− 甲信越地方編 】

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資料
郷土を救った人々
−義人を祀る神社−
神社建築
鳥居
『鳥居の研究』
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『鳥居考』
津村勇 分類
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○○の神々
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