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「郷土を救った人々 −義人を祀る神社−」 四国地方編
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 昭和五十六年、神社新報社より発行された 「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」 という書籍がある。

 帯には、
激流渦まく水中に自ら人柱となって消えていった人々!
十年、十五年と独力山中の絶壁に水路を掘りつづけた人!
農民のため漁民のために、すすんで自らの生命を捧げた人々!
来年の種のためにと、餓死をしてまで籾を残していった人!
それらの人々に対する郷土の信仰は、この日本がつづくかぎり決して消えることがない。

そんな、郷土のため、人々のために犠牲になった人達、尽力した人達を祀る神社が地方にはある。
このページでは、「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」に載っている神社の要約などを中心に列記する。
近くを訪れた際には、一度足を運んでみたいという僕の願望のリストなのだ。

本ページは四国地方(徳島県、高知県、愛媛県、香川県)のリストです


徳島県
五社神社 徳島県名西郡石井町高原字東高原411
【山口吉右衛門命・山口市左衛門命・後藤常左衛門命・後藤京右衛門命・宮崎長兵衛命】
 天明元年(1781)の創建。宝暦年中、うち続く不作のため、特に藍玉(あいだま)農家の生活は困窮し、藩に救済を嘆願したが受け入れられず苦しんでいた。 この時高原村の五人組をつとめていた後藤常左衛門父子ら五名を首謀者として、名東・名西・板野・麻植四郡の藍作農民を中心とした大規模な一揆が計られたが密告にあい失敗、宝暦七年(1757)三月指導者五人は磔刑に処された。 藩はその非政を悟り重税を改めたので農民たちの五人に対する感謝の念強まり、其の功徳を慕って天明元年社を建て五社明神として祀った。 藩では罪人を祀るのは不都合だとし、嘉永五年(1852)社殿を毀ち祭祀を厳禁したが庶民猶追慕しやまず、 明治元年仮小屋を建てて「天満大神」と称して祀り、明治十二年五社神社を復活、明治十六年社殿を新築した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
秀塚神社 徳島県美馬市美馬町北東原
【お秀命・与右衛門命】
 明治初期の創建。宝暦年間、当時の重清村は庄屋西岡重右衛門により支配され、農民は苦しんでいた。 西岡家は藩主から強大な権力を与えられ、あたかも領主のように振舞っており、 年貢の取り立てにおいても、通常より二割も大きな枡を用いるなど、莫大な役得をむさぼっていた。
 この西岡家の横暴に対し、農民達は代表者を立てて直訴しようと協議し、かつて政所の下役であって庄屋の不正に詳しい組頭の一人・与右衛門が選ばれた。 しかしながら与右衛門は讃岐の国から阿波の地へ移り住み、入り婿になったばかりであったから、一人前の百姓として取り立てられておらず村の代表として認められない恐れがあった。
 そこで与右衛門の妻であるお秀が、自ら進んで大役を引き受け、夫の身代わりとして女ながらも直訴に成功。庄屋・西岡家はお役御免となった。 しかし直訴の罪は免れず、鮎喰河原に引き出されて打ち首となった。
 その後、夫与右衛門に関しては諸説あり、お秀とともに打ち首になったとする伝聞や、お秀の首を葬った墓前で自害したとも、あるいは与右衛門が直訴してお秀とともに打首になったとも伝えられている。
 お秀・与右衛門の義行に感謝し、村人たちは秀塚に祀り、明治に入って秀塚神社を創建した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
高知県
一木神社 高知県室戸市室津
【一木権兵衛政利命】
 明治九年(1876)の創建。室津の沖合一帯は海上最大の難所で、巨岩・暗礁が無数に存在し、多くの船が遭難・難破する状況であった。 そこで津呂港の工事が行われ、ついで室津築港の計画が起こった。寛文年間(1661〜)、 室津港の普請奉行となった一木権兵衛政利の指揮で工事がはじめられ、難工事の末に幾多の巨岩や暗礁が取り除かれ 港湾も深く掘り下げられた。だが最後に残った港口を塞ぐ大岩は、人夫総掛かりでも除去できず、ノミで砕くこともできなかった。  おそらくこの大岩は神石に違いないと考えた一木権兵衛政利は、一日斎戒沐浴して天神地祇に、工事が完成したならば我が一命を奉らんと祈願。 その翌日工事を再開すると、不思議なことに大岩は簡単に砕かれ、その痕から血がほとばしり出たという。
 かくして寛文・延宝と十九年にもわたる工事が完成し、室津の町も漁港として発展する基盤が出来た。 しかしながら一木権兵衛政利は祈請に従って延宝七年(1679)自決して天地神明に奉じた。 人々はその義気に感じ、港の側に石碑を建立。明治九年、一木権兵衛政利の墓のそば、室津港を見下ろす丘の上に一木神社が創建された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
兼山神社 高知県高知市吸江210−4
【野中兼山命(野中伝右衛門、野中伝右衛門良継)】
 正徳三年(1713)の創建。野中兼山は播州姫路の出身。二十二歳から二十八年間土佐の奉行を務め、 土佐開発に功績のあった人物。旧長曽我部系の浪人救済、藩内各地の灌漑、用水、開墾、築港、殖産にと大いに功績をあげ、 藩内の人々に慕われていた。しかし、晩年はその政治を快く思わない反対派の誹謗もあって 寛文三年(1663)に隠居し、その年の十二月、吐血し、四十九歳で没した。
 正徳三年(1713)野中兼山の恩恵を蒙った弘岡井筋の崇敬者によって春野神社が創建された。
 明治四十四年、当時の県知事であった杉山四五郎が議会に提案し、満場一致で神社建設が決議され、 現社地に春野神社を移転して祀り県社兼山神社とした。
 野中兼山の業績は土佐藩内全域におよび、兼山神社の他にも多くの石碑や祠に祀られている。 一例として、長岡郡本山町の野中神社、香美市土佐山田町須江の野中神社、室戸市室戸岬町の王子宮境内に兼山神社、高知市比島町の四社神社熊野神社境内の清川神社などがある。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
野中神社 高知県長岡郡本山町
【野中兼山命(野中伝右衛門、野中伝右衛門良継)】
 上記の土佐開発に貢献した野中兼山を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
野中神社 高知県香美郡土佐山田町須江野開キ658
【野中兼山命(野中伝右衛門、野中伝右衛門良継)】
 上記の土佐開発に貢献した野中兼山を祀る。
参考:「平成祭データ」
王子宮境内 兼山神社 高知県室戸市室戸岬町津呂
【野中兼山命(野中伝右衛門、野中伝右衛門良継)】
 上記の土佐開発に貢献した野中兼山を祀る。
参考:「平成祭データ」
四社神社熊野神社境内 清川神社 高知県高知市比島町2−257
【野中兼山命(野中伝右衛門、野中伝右衛門良継)】
 上記の土佐開発に貢献した野中兼山を祀る。
参考:「平成祭データ」
若宮神社 高知県吾川郡いの町上八川
【高橋安之丞命】
 元禄元年(1688)の創建。貞享年間、この地方一帯は連年の旱魃とイナゴの害によって名伏しがたい状況であった。 村の庄屋・高橋安之丞は、村民に私財を分け与え、年貢を立て替え、施米などの救済に手を尽くしたが独力では限りがあり、 村の有力者たちと協議して、山内家仕置役岡部嘉右衛門に年貢の減額を訴願することを決意した。
 この村には高橋安之丞を嫉み、折あらば自分が庄屋にならんと欲する川橋三蔵というものがいた。三蔵は高橋安之丞の訴願を知ると、 岡部嘉右衛門を訪ね「高橋安之丞の訴願は嘘であり、彼が減税の上前を私腹に入れる謀りごと」であると讒訴した。
 岡部は三蔵の言を信用して、高橋安之丞を捕え、元禄元年(1688)に処刑した。高橋安之丞の死後、 岡部をはじめ虚偽の申し立てをした三蔵など、つぎつぎと悲惨な最期を遂げたため、 村人たちは高橋安之丞の祟りであると話し合い、高橋安之丞の遺骸を懇ろに埋葬し、墓のそばに社殿を造営して祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
道珀神社 高知県高岡郡津野町白石駄馬
【白石道珀命(白石与介)】
 寛永五年(1628)の創建。山間部の白石駄馬の開拓に一生を捧げた白石道珀を祀る。
 現在の白石駄馬は、道珀水路のおかげで見事な美田の広がる地となっているが、 この水路は絶壁の岩盤をくりぬいて1・5Km、中谷の奥から導かれたもので、 この水路が出来れば、この土地も美田になると信じた白石道珀が、一人のみを持ち、 十数年にわたって岩盤と取り組んだ結果、完成させたもの。
 難事業を成し遂げた後、バッタリと倒れて果てた白石道珀は、里人によって水路の側に葬られ、 水路の守護神として祀られた。その後、村と水路を見渡せる丘の中腹に遷座され「道珀神社」と称された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
愛媛県
伊太祁神社境内 水矛大権現 愛媛県四国中央市土居町土居三月田
【安藤惣之進命】
 天正の頃、土居組大庄屋の加地氏と天満村庄屋の寺尾氏の間で、水利権譲渡の争いが起き、藩の採決の結果、 天満井手を開いて大きな樋を作り、河原越しに水を引くことになった。
 この樋が作られると土居村に水が来なくなるため、安藤惣之進は農民を河原に集め、川に課した樋をすべて取り外し焼却。 安藤惣之進は、その責任を取って燃え上がる火炎の中に身を投じて自殺した。
 この一件で天満村は浦山川の分水を断念し、土居村にはこれまで通り水を得ることができた。 村民はこれに感謝し、伊太祁神社境内に石祠を建てて安藤惣之進を祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
又野神社(平兵衛神社) 愛媛県新居浜市又野
【村上平兵衛命】
 宝暦年間の創建。宝暦三年、西条藩はその年の豊作を理由に税率を二倍とし農民は困窮、農民の怒りが爆発し一揆が発生した。 藩は農民の減税の訴えを受け入れ一揆は沈静化したが、指導者の村上平兵衛、高橋孫兵衛、高橋弥一左衛門の三人は捕えられ、 一年後には刑場の露と消えた。(三万石騒動)
 その後、西条の領民はこの三人を「お三人様」と称え、新居郡神郷村中郷の丘上に社殿を創建し「高村神社」として尊崇した。 明治以後も白山神社境内に祀られていたが、明治の末に白山神社が廃絶したため、 丘の中腹に同地の住人であった村上平兵衛を祀り「又野神社」を創建した。
 また、喜光地の喜守神社、東田の田守神社、星原の土守神社にも義民が祀られ、宇高観音堂には三義民の碑が建立、 さらに西条市の伊曽乃神社境内にも藩主の発意によって三義人を祀る又野神社が創建されている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
喜守神社 愛媛県新居浜市喜光地
【村上平兵衛命・高橋孫兵衛命・高橋弥一左衛門命】
 上記宝暦の三万石騒動の犠牲となった三義人を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
田守神社 愛媛県新居浜市東田
【村上平兵衛命・高橋孫兵衛命・高橋弥一左衛門命】
 上記宝暦の三万石騒動の犠牲となった三義人を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
土守神社 愛媛県新居浜市星原
【村上平兵衛命・高橋孫兵衛命・高橋弥一左衛門命】
 上記宝暦の三万石騒動の犠牲となった三義人を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
伊曽乃神社境内 又野神社 愛媛県西条市中野甲1649
【村上平兵衛命・高橋孫兵衛命・高橋弥一左衛門命】
 上記宝暦の三万石騒動の犠牲となった三義人を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
嘉母神社 愛媛県西条市禎瑞644
【竹内立左衛門命】
 寛政年間の創建。禎瑞干拓を完成させた郡奉行竹内立左衛門を祀る。
 安永七年(1778)四月、竹内立左衛問が藩命を受けて加茂川及び中山川の下流の三角洲を利用して新田を開拓するのに際し、 加茂川下流の洲上(現在の嘉母神社の本殿の所)に藩内祈願社六社(村山、黒島、一宮、伊曽乃、石岡、周敷)の各神社の神主を招じて小祠を建て天神地祇を勧請した。 爾来、竹内氏は日夜この神明に熟祷を捧げて新開地の竣工を祈願、安永九年(1780)十一月汐止に成功し、天明元年に三百余町歩の新開地造成を完了。
 天明二年(1781)藩主松平頼謙が新田の豊穣を祈願して、小祠を嘉母神社として祀り産土大神とした。 寛政三年、五十四歳で没した竹内立左衛門を祀る早苗神社を嘉母神社境内に創建。昭和三十三年、新田開拓百八十年記念祭に際し早苗神社を嘉母神社の相殿に合祀した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
義農神社 愛媛県伊予郡松前町筒井
【義農作兵衛命】
 明治十四年の創建。享保十七年(1732)の大飢饉により、松山藩内の餓死者は五千人にも達していた。 作兵衛の家では来年の作付のための麦の種一袋を保存していたが、どんなに困っても決して手を付けず、 とうとう畑で作業中に疲労で倒れてしまった。近所の人は、その麦を食べて生き延びることをすすめたが、 絶え絶えの息の中で 「農は国の本、種子は農事の基である。」「私がたとえ餓死しても、この麦種によって幾万人かの生命を完うできれば、私の本望である」と言い切り そのまま息絶えた。
 人々は作兵衛を義農と称え、松山藩主も安永六年(1777)「義農之墓」と建てて顕彰した。 明治十四年伊予郡有志によって小祠が創建され、義農神社と称した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
和霊神社 愛媛県宇和島市和霊町1451
【山家清兵衛公頼命】
 寛永八年(1631)の創建。元和元年(1615)宇和島藩主となった伊達秀宗の家老として赴任して来た山家清兵衛公頼は、 農村漁村を巡視して、その貧苦の惨状を憂い、産業指導に尽力し、農漁村の窮乏救済のため税率も引き下げるなどの善政を行った。
 元和三年(1618)宇和島入部の際に借りてきた三万両の返済期限となり、 借金返済のため山家清兵衛公頼は藩の緊縮財政を断行。家臣の俸禄も四分の一を減俸した。
 このような財政施策に対し家臣の中に反対するものもあり、 桜田玄蕃を中心とする反対派は元和六年(1620)藩主秀宗を動かして内諾を得、山家清兵衛公頼とその側近者を急襲し暗殺するにいたった。
 暗殺事件の後、暗殺に加わった桜田一党は、あるいは地震で、あるいは落雷などの天災によって悲惨な最期をとげ、山家清兵衛公頼の祟りであると噂された。 このことが藩主秀宗の耳に入り、寛永八年(1631)城北の須賀川のほとり森安の地に小祠を建て「児玉明神」と称して祀った。
承応二年(1653)檜皮の森に遷座して「山頼和霊神社」と改称。その後2度の遷座の後、享保二十年(1735)現社地に祀られた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
安藤神社 愛媛県宇和島市吉田町東小路131
【安藤儀太夫藤原継明命】
 嘉永二年(1849)二月の創建。寛政五年(1793)二月、積年の苛斂誅求に忿怒した領民は、 宗藩たる宇和島藩に訴えようと、宇和島八幡河原に参集した。吉田藩の重役はなすところを知らず周章狼狽するのみであったが、 藤原継明公は挺身、河原に赴き農民を説得したが志ならず、遂に遺書を認め、全責任を一身に負って切腹し、 藩政の危きを救い、農民を恵福の道に誘った。後に、領民は藤原継明公の忠愛の深きに感銘して社殿を設け、その霊を奉祀し、遺徳を欽仰した。
参考:「愛媛県神社誌」
香川県
離宮八幡神社境内 豊水分霊神社 香川県小豆郡土庄町肥土山東甲2303
【太田伊衛門典徳命】
 明治十一年(1878)の創建。小豆島は瀬戸内海でも最も雨量少なく、地勢が険しいため雨が降っても一気に海へ流れてしまい、水不足に悩まされていた。 そこで肥土山の庄屋・太田伊衛門典徳は、伝法川を堰き止めて大池を作ることを計画。谷々を歩き回って適地を探し求め、苦労の末、蛙子と呼ばれる場所を見つけた。 さらに肥土山、上庄、淵崎の三ケ村の百姓に池築造の必要性を説き、三ケ村をあげての大工事に着手。 代官所との約束で、工事はすべて地元の百姓によって行われることになっていたが、工期が長引くと共に百姓たちの不満が高まり、 多くが脱落していく中、太田伊衛門典徳は私財を投げうち、庄屋の特権であった酒屋株も人手に渡して資金を調達し、 三年後の貞享三年(1687)春、ようやく蛙子池が完成し、その年の六月、待望の水が肥土山村に達した。
 太田伊衛門典徳は宝永四年(1707)に没し、仏式の法要が営まれていたが、 明治十一年、村民たちによって豊水分霊神社が創建された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
向良神社 香川県高松市松島町2−1−22
【向山周慶命・関良助命】
 江戸後期の創建。享保年間(1716〜)讃岐藩は旱魃のための凶作が続き、農民たちは疲弊の極みに達し、餓死者が続出していた。 藩主松平頼恭は藩の財政を立て直すため重臣たちと協議し、これまで多額の金銭を投じて輸入していた砂糖の製造に着目、製造法を研究させた。 藩主の命を受けた池田玄丈は、弟子の向山周慶と研究を重ねた十八年後、病のために没し、研究は弟子の向山周慶に託された。
 ある時、薩摩から四国巡礼に訪れた関良助は急病で倒れ、向山周慶の看病で全壊した。向山周慶の恩に報いるため、 関良助は郷土薩摩での砂糖製造方法の秘密を伝えることを約束し薩摩へ帰国。砂糖製造法を習得した後に、再度四国巡礼と称して 持ち出しを禁じられていたキビ苗を持って向山周慶に伝授した。
 良質のキビ苗を入手した向山周慶は、寛政二年(1790)白糖の製造に成功。 改良を加えて三方白と称する純白の砂糖を将軍に献上するまでになり、讃岐の白糖は全国に知られるようになった。
 製糖研究に生涯を捧げた向山周慶は文政二年(1819)七十四歳で没した。 向山周慶に協力した関良助は、国禁を破ったため讃岐に移住して九十歳まで生きたとも、薩摩の刺客の手で非業の死を遂げたとも伝えられている。
 両人の死後、玉藻城内に二霊が祀られ、その後、高松藩松ヶ枝舎砂糖会所に、両人の名前を合わせた向良神が祀られた。 さらに明治十八年現社地に社殿が造営された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
八坂神社境内 大久保神社 香川県綾歌郡綾川町萱原964
【大久保主計命・久保太郎右衛門命】
 宝永六年(1709)の創建。宝永年間、水不足のため困窮する農民のため、萱原村の庄屋・久保太郎右衛門は綾川上流の山田村から萱原村への用水路を計画。 高松藩に請願した。一部の開墾が許可され工事に着手したが、水が途中で散逸してしまい目的地まで水が流れてこなかった。そこで久保太郎右衛門は、さらなる工事許可を求めて藩主に直訴し捕えられた。
 久保太郎右衛門は、牢内にあっても用水路の必要性を説き続け、藩もその熱意に動かされて、久保太郎右衛門を仮出獄させ、藩吏とともに実地検分したが、やはり開墾の見込みなしと報告され、久保太郎右衛門は再び投獄された。
 村民たちは久保太郎右衛門に深く同情し、しばしば便宜を図ってくれた藩の重役・大久保主計を通じて久保太郎右衛門の釈放を嘆願し、熱意が伝わって久保太郎右衛門は釈放され、工事の許可も与えられた。
 久保太郎右衛門は私財を悉く投じ、村民の協力を得て工事に励み、宝永四年の春に萱原、滝宮、陶の三ケ村にわたる灌漑用水路が完成した。
 久保太郎右衛門は、この用水路の完成は大久保主計の深い恩恵によるものであるとして宝永六年、大羽茂池の畔に大久保神社を創建。 正徳元年(1711)久保太郎右衛門は没した後に大久保神社に合祀された。大久保神社は昭和四十三年、八坂神社境内に遷座された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
北尾神社飛地境内社 七義士神社(権兵衛神社) 香川県三豊市豊中町笠田笠岡3285
【大西権兵衛命ほか六柱(笠岡村の弥市郎、笠岡村の嘉兵衛、大野村の兵治郎、七箇村の金右衛門、碑殿村の甚右衛門、三井村の金右衛門)】
 延享二年(1745)から四年におよぶ大旱魃と寛延二年(1749)の大豪雨によって丸亀・多度津両藩の農民は疲弊し餓死者が続出した。
笠岡村の大西権兵衛は、私財を投げ打って人々の救済にあて、年貢の減免を庄屋に懇願したが藩主の耳には入らず、 ここに及んでは藩主へ強訴するしか道はないと決意。 笠岡村の弥市郎、嘉兵衛、大野村の兵治郎、那珂郡七箇村の金右衛門、多度津藩領多度郡碑殿村の甚右衛門、同郡三井村の金右衛門らと謀り、 寛延三年(1750)正月二十日未明、三野郡二十三ケ村、豊田郡三十九ケ村、多度郡七ケ村、那珂郡二十一ケ村の合計九十ケ村、六十万人にもおよぶ百姓一揆が勃発。 一揆の終結の後に捕えられた大西権兵衛ら七人と大西権兵衛の嫡子新治郎は一揆の首謀者として打首獄門、大西権兵衛のその他の子ら三人も打首となった。
 四郡の農民らは義挙の七人を祀り「七義士神社」を創建した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
内浜霊神社 香川県観音寺市室本町新田
【小島勝封命・宮崎龍松命】
 明治初期の創建。明治六年六月、観音寺、三豊郡一円に竹槍騒動と呼ばれる大一揆が発生。 小島勝封と宮崎龍松は、その鎮圧にあたっていたが、暴徒と化した人々によって惨殺された。
 その後、両人は中西金作とその子孫によって密かに祀られていたが、警察官OBによって組織される警友会によって管理され祭祀が行われている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
八幡神社 香川県観音寺市大野原町大野原1745
【平田正重命・平田正澄命】
 寛永二十年(1643)の創建。大原野の地は、肥沃な土地であったが灌漑の便が悪く、荒地のまま放置されていた。 寛永年間、高松藩生駒家の西嶋八兵衛が開墾を試み、池を築きかけたが、寛永十七年、生駒家の国替えによって頓挫。 その後を継いで、約二十年の歳月をかけて開墾事業を行ったのが平田正重である。
 京都の金融業者であった平田正重は、当地の開墾事業に着目し、寛永二十年(1643)許可を得て工事を開始。 この地を開くにあたって、当地の神霊を祀るため八幡神社を創建。突貫工事にて池を完成させたが、 その後十二年間、毎年のように堰が切れ、池改修資金も困難となり、 開墾事業も進まなかったが粘り強く藩に池改修を上訴し、承応三年(1645)その許可を得て、大原野新田開発の基礎を固めた。
 明暦三年(1657)に没した平田正重の意志を継ぎ、その子、平田正澄は開拓工事を推進。溜池の増設などを行って耕地を広げていった。 貞享四年(1687)、平田正澄逝去の後も平田家を中心に開拓はさらに前進した。
 のちに村人は平田父子の恩に感謝し、平田正重が創建した八幡神社に父子を祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」


最終更新日:2014/11/15
【 郷土を救った人々 −義人を祀る神社− 四国地方編 】

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資料
郷土を救った人々
−義人を祀る神社−
神社建築
鳥居
『鳥居の研究』
根岸栄隆著 分類
『鳥居考』
津村勇 分類
本地垂迹
神使
○○の神々
燈籠
路傍の神々
祝詞
神社合祀