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鷹居神社
たかいじんじゃ
大分県宇佐市上田字1435
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宇佐神宮の西1Km。駅館川の手前。
10号線側に鳥居があり、そこから参道が続く。
数百m先に、駐車スペースがあり、その奥が境内。
宇佐神宮境内社と同様に、朱と白で彩色された社殿がある。
本殿は覆殿の中にあって見えないが、流造らしい。
中を覗こうとしたが「無線警報装置」があると書いてあったので止めた。
元明天皇和銅五年の創建で、八幡大神の御社を最初に奉建した霊地である。
宇佐神宮に関する、辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、
宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山?)に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、
紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、
乙咩社、
泉社、
瀬社、
当社鷹居社、
小山田社、現社地へと移ったとする。
拝殿後方に幣殿があり、その後ろに覆殿に覆われた本殿。
境内には、駐車場などもあり、「憩いの場」を目的に整備されたようだ。
が、雑草が多く、あまり活用されている雰囲気ではない。
境内 |
拝殿 | 後方の覆殿 |
当社の東、「宇佐風土記の丘」へ向う道辺りから
宇佐神宮西参道までの道を勅使道といい、
隼人ゆかりの化粧井戸・凶首塚古墳・百体宮などがある。
勅使道の化粧井戸 |
凶首塚古墳 |
百体社 工事中だった。 | 鳥居扁額に「百體殿」 |
元明天皇和銅五年の創建なり、宇佐縁起に曰く、 「和銅元年宇佐郡内大河流西岸有二勝地一、東岸有二松木一、化鷹顕レ瑞、是大神之御心荒毘坐也、同五年大神比義與二 辛島勝自一、依二神託一、以二勅定一令レ造二神殿一、鷹居瀬社是也、辛島勝自爲二祝職一、同勝意布賣爲二禰宜一、勝自之妹黒比賣 爲二采女一、並御戸代田二段進之、辛島勝波豆米爲二禰宜一矣、靈龜二年託宣、此所路頭往還人無禮、就二此等一甚愍二 小山田林一移住願給者云々」 と見え、また大宰管内志に云く、 「宇佐宮記に曰、敏達天皇元年云々、大神化而爲レ鷹飛二翔虚空一、時大神ノ比義、辛島勝乙女兩人、三年之間斷レ穀而 祈申時、神託云、吾化二爲靈神一飛二翔虚空一、留無二棲息志一、心荒多利、其與利郡瀬仁移牟云々、和銅五年始造レ社、至二 靈龜二年一五箇年之間御鎮座とあり、鷹居は多可爲と訓むべし、里人云、鷹居社は宇佐郡上田村内にあり、田 笛より鷹居まで二里十町あり、神殿、拝殿、石鳥居あり、本宮を去る事十町餘西にして松林の内にあり、今 は上田村の人是を祭る十二月中ノ卯ノ日官從五位下志摩守大神ノ頼唯奉仕す」 と見ゆ、以て本社の梗概を窺ふべし、明治五年縣社に列す。 −『明治神社誌料』− 勅使道と隼人にまつわる文化財この平松付近は、かつて松隈と呼ばれ、宇佐 宮中(小盆地)の玄関口でした。一直線にの びる道路の東方には、朱塗りの呉橋や宇佐神 宮の森が望まれます。 <勅使道> 古代より、宇佐宮には天皇即位や国家異変な どに際し、天皇の意志を伝える勅使が派遣さ れました。宮道を進んだ勅使は、駅館川沿い の宇佐駅から宇佐宮へと参向したため、この 道は勅使道と呼ばれました。江戸時代、宇佐 宮の神官は松隈で勅使を出迎えました。 <凶首塚古墳> 養老四年(七二〇)に朝廷が大隅・日向の隼 人を討伐した際、宇佐八幡の神軍も参加し、 隼人の頭(首)を持ち帰って、この塚に葬っ たと伝えられています。しかし、この古墳は 六世紀末頃の横穴式石室で、伝説の時代とは ずれています。 <百体社と化粧井戸> 隼人の霊をなぐさめるため、宇佐宮では放生 会が始められ、百体社にその霊が祭られまし た。西方三百メートルのところに化粧井戸が あります。この水で放生会に参加する古表社 (福岡県吉富町)と古要社(中津市)の傀儡 子(人形)を洗ったと伝えられています。 −勅使道案内板より− |
【 鷹居神社(印刷用ページ) 】