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八幡神社
はちまんじんじゃ
山形県酒田市市条字水上壱番ノ内1
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出羽國総社 |
鳥海山の南西麓にある、山形県酒田市にある。
遊佐駅から、345号線を南下して、5Kmほど。
荒瀬川の南岸の道路脇に、西向きに鎮座している。
道路に面して赤い大鳥居が立ち、
参道には、瓦を乗せた、これも赤い鳥居。
境内は広く、綺麗に維持されており、街中の八幡宮らしい佇まいだ。
現在の鎮座地は、市条だが、通称「一条八幡宮」。
出羽国の総社であったと考えられている神社。
社伝によれば、元慶元年(877)、陸奥国夷俘の反乱に際し、
国司藤原朝臣興世が、軍神である京都石清水八幡宮を勧請し創建。
一説には、出羽郡司小野良實による勧請とも。
いずれにしろ、当社にて夷俘鎮定の祈願がなされ、
その霊験により、官軍が勝利したという。
賽銭箱には、金の巴紋が付いていたが、
拝殿の向拝には、金の対い鳩が付いていた。
鳩は、八幡宮の神使なのだ。
鳥居 | 境内鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
加茂神社 | 祖霊社 |
八幡神社御由緒記
飽海郡八幡町市条字水上壱番地
−境内案内− 平安時代前期、出羽国(秋田、山形)は、その歴史的時代背景をたどると鳥海山の噴火やそれに伴う地震、 飢饉などの自然災害が多く、地元の人々は精神的打撃をたびたび受けていた。また元慶年間に入ると、出 羽国には朝廷側の律令政治が深く浸透していない為に蝦夷民族によって、たびたび反乱を起こされ自然災 害に伴う人々の心の不安は究極まで追いこまれたのである。元慶元年(877年)人皇57代陽成天皇の 御世、出羽国司従五位下藤原朝臣興世は、陸奥の蝦夷民族を叛せし時、山城国(京都府八幡市八幡町)御 鎮座なる石清水八幡宮の御神霊を御荘河北荒瀬郡大泉郷に勧請され、御社殿を造営し、一条八幡宮と詠じ 給われたのである。同2年(878年)3月15日蝦夷民族は出羽国に進入し、出羽国府であった秋田城 を焼き打ちし多くの地元の民家を焼亡する。この反乱(元慶の乱)を収捨する為に朝廷は藤原朝臣保則を 出羽権守、小野朝臣春風を鎮守府将軍従五位として出羽国に派遣し、秋田へ下向に際し蝦夷民族の反乱鎮 定を当神社に祈願され翌年ようやくこの反乱は終止符を打ったのである。以来、国司、郡司、地元の民か らの崇敬の念は厚く鎌倉時代に入り、清和源氏が石清水八幡宮を氏神として崇拝してからは、八幡信仰は、 日本全国津々浦々迄広まり、伊勢の神宮に次いで国家第二の宗廟となったのである。当神社もこのような 八幡信仰を強く受け継ぎ次第に隆盛を窮め、室町時代の永享年間(1492年)以降には神領(神社領地) 十万八千苅(1080反)に及び、神社境内に御堀を廻らし荒瀬川より水を引き光時の荒瀬、平田地方 (現在の八幡町、平田町)一帯の潅漑用水の源として多くの地主、百姓達の信仰をあつめたのである。 その面積、二千八百五十三町五反(約二千八百万平方メートル)を以って水稲耕作を行い、これらの石高 の一部を当神社の一年間祭祀費用にあてたとされている。又、後の江戸時代には慶長17年(1612年) 6月4日に出羽少将最上義光公より神領49石2斗5升2合を受け給はり、元禄年間には御社殿修理の都度 酒田の本間家をはじめ鶴岡の酒井家より御用材、金銭を受け給っている。このように、庄内地方広域に渡り 根強い信仰を受けた当神社は一千数余年の歴史を経て明治9年2月24日郷社から県社に格を進められ、 一条八幡宮から八幡神社と改名し、石清水八幡宮の御霊を此の地に勧請されたことで地方の安泰国家鎮護 の守神として現在も多くの人々から崇敬されている。 −『平成祭データ』− |
【 八幡神社 (酒田市市条)(印刷用ページ) 】