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唐松神社
からまつじんじゃ
秋田県大仙市境字下台94
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秋田県大仙市(旧協和町)にある。
奥羽本線羽後境駅の南500mほど。
13号線から少し西へ入った所に鎮座している。
道路に面して、赤い一之鳥居。
貫の貫通していない中山鳥居に似た変わった形。
路地のような参道を進むと、石造の二之鳥居。
二之鳥居から境内まで、樹齢300年の見事なスギ並木。
朱の鳥居が参道に二つ並んで、奥に社殿がある。
そして社殿後方には、境内を取り巻くように淀川が流れている。
一之鳥居から二之鳥居、そして朱の鳥居から社殿まで、
やや下り坂の参道が続き、
参道突き当りから、数段の階段を下ると社殿があるという構図。
通常の神社では、社殿は境内の一段高い所に鎮座しているが、当社は、一段低い。
昔、社殿は唐松岳山頂にあったが、
佐竹藩主であった佐竹義処が、乗馬のまま、社前を通過しようとして落馬。
怒った義処が、山頂から現在の窪地に移したと言う。
参道の左側、社務所の東の池には唐松山天日宮がある。
池中に石の築山があり、その上に鎮座。
また、南側の池にも石組があり、中央に玉鉾大神と刻まれた石碑がある。
当社・唐松神社に関しては、進藤孝一氏の『秋田「物部文書」伝承』に詳しい。
以下の記述は、その本に記載されている物部文書による。
唐松神社は、本来「韓服宮」という名前。
三韓征伐後、つまり韓を征服した神功皇后の創建という意味。
新羅征討に参加した、物部氏・膽咋連(いくいくむらじ)が、
皇后の御腹帯を拝受し、当地に来て、月出野に、当社を創建した。
また、三韓征伐の帰路、神功皇后は男鹿半島から当地に立寄り、
石見川(岩見川)を経て、当地に上陸(船岡という)。船玉大神を祀った。
唐松神社の北東5Kmに、その船玉神社が祀られており、
祭神は神功皇后を援けた住吉三神。
当社境内にある唐松山天日宮について。
物部文書によると、物部氏祖神である饒速日命は、
鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。
その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、
大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。
延宝8年に、藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。
今でも、唐松岳に元宮がある。
饒速日命の居住していた場所は、御倉棚と呼ばれ、
十種神宝を納めていた三倉神社のある場所。
当地で、饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、
後に大和へ移ったという。
饒速日命は日殿山に、神功皇后は月出野に、社殿を造営しており、
日月の対比が面白い。
当社祭神の軻具突命は、別名・愛子大神。
当地の物部氏の氏神である火結神のこと。
また、当社は、「女一代守神」のお宮でもある。
当社を窪地に遷した義処により指定されたもので、
義処の息女久姫の難産を見かね、当社に祈願したところ、
無事男子を出産したという。
「物部文書」そのものの真贋に関しては、素人なのでわからないが、
半島や大陸からの移民が、九州だけではなく、北陸や東北、北海道からも
と考えるのは、極めて自然だろう。
日本各地に移住した先進文化を持った人びとが、原住民を統治し、融合しながら、
大和へ集中した結果、反大和、前大和の旗を掲げるのもありえること。
物部氏という氏族が、秋田オリジナルであるのか、九州オリジナルであるのか、
あるいは半島からの分派であるのか、さらには各地の半島出身者の大同団結か。
貫の貫通しない鳥居と、やや下る参道、スギ並木が特徴だが、
一段低い窪地の社殿がやはり、際立っている。
小雨の中の参拝だが、夏休みのせいか、参拝人も数組。
一の鳥居 | 参道 | 参道のスギ並木 |
参道右にある、唐松山天日宮(からまつさんてんにちぐう)は
「あめひのみや」とも呼ばれる。
池の中にあるというより、築山の周りに濠を掘ったイメージ。
いわば、水の結界ということだろうか。
その濠から、南へ池が続き、池の真中にに石碑。
玉鉾大神、高天原などと刻まれている。
また、池の横の丘の上にも同様の石碑。
他にも、いくつかの石碑があるので、じっくり見ても飽きない。
唐松山天日宮入口 | 唐松山天日宮 |
唐松山天日宮 |
石碑 玉鉾大神 | 池の中の石碑 玉鉾神、高天原 | 石碑 愛子大神、多福大神など |
一段下った所にある拝殿の中に、奥殿があるらしい。
他の参拝客も居たので、ちょっと遠慮した参拝だったため、
撮影し忘れてしまった。
参道 | 鳥居 | 鳥居 |
一段低く社殿がある | 拝殿、中に奥殿がある |
唐松権現社 | 土木建築の神 | 山の神 |
境内社 | 境内社 |
−境内案内板− |