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上杉神社
うえすぎじんじゃ
山形県米沢市丸の内1−4−13
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旧別格官幣社 |
山形県米沢市にある。
米沢駅の西2Kmほどの米沢城址(松岬公園)に鎮座。
米沢一の観光名所だ。
東側の表参道があり、御堀を渡って境内へ。
参拝は1月。御堀は凍っていた。
境内入口には、謙信ゆかりの「毘」と「龍」の旗が冬の風に靡いていた。
入口の右手には、謙信公の像、参道左手には鷹山公の像。
鳥居をくぐると正面に神門があり、
神門内、垣の中に社殿がある。
天正六年(1578)、春日山城内で急逝した
上杉謙信の遺骸は、春日山城内の不識庵に鎮祭された。
関ヶ原の戦の後、謙信の甥、二代目景勝は米沢に移封され、
不識庵も米沢城内に移し、廟堂とした。
明治四年(1871)、上杉斉憲は廟堂を改め、
十代治憲(鷹山公)を合祀し、翌五年に、上杉神社と改称。
明治三十五年、別格官幣社へ昇敍された時に、
鷹山公を、二の丸世子御殿跡に、摂社松岬神社として別に祀った。
神紋は、上杉家の家紋「竹に雀」。
上杉家を創立した重房が、公家・実家の家紋を賜ったという。
上杉家の「竹に雀」は、他の家紋と違い、
右側の雀が口を開け、左の雀が口を閉じた、
「阿吽」の形が特徴。
境内入口 |
鳥居 | 御堀は凍っていた |
上杉謙信公の像 | 鳥居 | 上杉鷹山公の像 |
神門 |
拝殿 | 垣の隅に何かあった |
拝殿 | 冬なので本殿はブルーシートで保護 |
福徳稲荷神社 | 福徳稲荷神社奥乃宮と辨天宮 |
上杉神社由緒記 御祭神上杉謙信 天正六年(一五七八年)三月十三日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に四十九才で急逝された時、 その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮祭されたのであるが、二代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、 祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し爾来二百六十年に及んだ。明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、 米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同九年には新たに神殿成り初めて遷座祭を行なう。 明治三十五年、往時の勤王の功により別格官幣社に列せられたが、(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して 正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。大正八年米沢市大火の際本殿以下悉く 類焼し、同十二年米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士の設計による現在の神殿を始め一切を竣成したのであるが、 境内は旧米沢城址本丸跡でその六割を占め凡そ六千三百坪、境域をめぐる堤上の桜花は濠に映じ陽春四月の例祭に は一段の美観を呈する。例祭は四月二十九日(歿年三月十三日を太陽暦に換算)。上杉神社再建に当り、藩祖謙信公、 二代景勝公、直江兼続公、十代鷹山公の遺品・遺墨等を収蔵、展示する稽照殿が創設された。 −『平成祭データ』− |
米沢城の東、御堀の外に摂社松岬神社が鎮座。
現在の祭神は、十代治憲(鷹山公)、二代景勝、
鷹山公の師・細井平洲、米沢建設の恩人・直江兼続、
米沢藩復興の功臣・竹俣当綱と莅戸善政の六柱。
松岬神社 | 境内 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
当社から121号線を東1Km行くと、
上杉家御廟所がある。
上杉家歴代当主の廟所で、東西110m、南北180m。
元和九年(1624)、二代景勝の死後、当地を廟所と定め、
以来、十二代斉定までの当主をこの地に葬ってきた。
明治六年(1873)米沢城解体の折、
城内に安置されていた初代謙信を、中央奥に移葬し、現在の形になった。
上杉家御廟所入口 | 初代謙信公御廟 |
境内 |
歴代藩主の御廟が並んでいる |
中央の謙信公御廟は、一つだけ奥にある。
写真を無理やり並べてみたら、こんな感じ。
「世子 顕孝公」は、鷹山公(十代治憲)の長男。
世継ぎとして決定していたが、天然痘のために19歳で死亡した。
明治以降に死去した十三代斉憲以後は東京に墓所があるらしいが、
最後の米澤藩主である十四代茂憲の記念碑が建てられている。
十三代斉憲の記念碑も建てれば良いのに。
謙信公御廟 | 雪の参道 |