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有礒正八幡宮
ありそしょうはちまんぐう
富山県高岡市横田町3−1−1

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旧郷社 |
富山県高岡市にある。
高岡駅の北東1.5Kmほどの横田町に鎮座。
千保川にかかる横田橋を渡るとすぐ、交差点に面して境内入口がある。
境内は、高山右近の意によって奉納された築城様式の石垣に囲まれている。
境内入口は南向き。入口に木製の鳥居が立ち、
綺麗に刈り込まれた植木を眺めながら進むと、左右にリアルな随神像。
やや伏し目がちな右大臣、左大臣に挨拶して境内に入るともう一つの鳥居。
鳥居の左手には、高岡市指定文化財の神輿が納められた神輿庫。
左手には手水舎「行啓 御用水」。
大正天皇が皇太子時代、高岡行啓のおりに、この水が献上されたらしい。
さらに参道を進むと美しい社殿。
幾重にも屋根を重ねた、いわゆる「八棟造」だが、
当社では日本海の荒波を模した「有礒造」と呼んでいるらしい。
綺麗に維持管理された境内には、親子抱き合いの欅や御神木の欅、
磐座などが点在し、とにかく美しい。
四季折々に違った風景が堪能できそうな、そんな神社。
当社は、有礒神と綏靖天皇を祀る『有礒宮』と
応神天皇外三柱を祀る『横田正八幡宮』の二社が合祀された神社。
有礒宮は大和より移住してきた有礒の民(綏靖天皇を奉斎する人々)が、
渋谷の浜(現在の高岡市雨晴岩崎の沖合い)に勧請奉斎したと伝えられ、
「有礒の海」の守護神として有礒七浦(氷見七浦)の宗社と崇敬された古社。
その後、日本海の荒海による浸蝕が激しく、
渋谷の山中(現在の燈台付近)に遷された後、
高岡の志貴野の山「山崎の丘」(現在の古城公園、小竹藪付近)に遷座。
さらに、前田利長による高岡築城に際し、
慶長九年(1604)、塩蔵下に仮遷座後、慶長十五年(1610)に
川原町地内の横田正八幡宮に合祀され、『有礒神社正八幡宮』と改称された。
横田正八幡宮の創祀年代は不詳だが、
文明年間(十五世紀後半)に上田丹後守が礪波山より勧請したとも伝えられ、
当時は宗泉寺の住職によって奉祀されていたという。
有礒宮との合祀の後、千保川(横田川)氾濫のため、
慶長十七年(1612)上田伊勢守の屋敷地内(現在地)に遷座された。
文化元年(1804)には『有礒神社』と改称。
明治五年郷社に列し、明治十六年本殿を新築して境内末社をすべて合祀、
昭和二十二年『有礒正八幡宮』に復称された。
当社の神紋は三つ巴と菊。
たぶん、綏靖天皇を祀る有礒宮が菊紋で、横田正八幡宮が三つ巴なんだと思う。
明治に合祀されたらしく、境内社は見当たらなかったが、
境外に三つの摂社(天満宮、熊野社、神明社)があるらしい。
『明治神社誌料』によると、八坂社、琴平社が境内社として存在していたようだ。
また同書の祭神の項に、神功皇后(息長武社)、罔象女命(水天宮)とあるので、
これらも境内社だったのかも。
境内に社務所があり、御朱印をお願いするつもりだったが、
社殿後方の本殿が良く見えず、外から見えるんじゃないかと、
いったん外に出て、裏に回って本殿を確認。
そのまま車に戻ってしまって、御朱印を頂戴するのを忘れた。
社頭 |
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境内入口の鳥居 ![]() | 境内の鳥居 ![]() |
随神像・右大臣 ![]() | 随神像・左大臣 ![]() |
境内 |
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神輿庫 ![]() | 行啓 御用水 ![]() |
有礒造の社殿 |
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親子抱き合いの欅 ![]() | 本殿、境外後方から ![]() |
磐 ![]() | 御神木の欅 ![]() |
社殿から参道 |
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