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高瀬神社
たかせじんじゃ
富山県南砺市高瀬291
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式内社 越中國礪波郡 高瀬神社
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富山県南砺市(旧井波町)にある。
福野駅から南東に3.5Km。南砺市井波庁舎から北西に3Km。
471号線から参道が南へ延び、大鳥居が立っている。
境内は南向きで、東大谷川に面し、鳥居の左に大きな燈籠。
右には「高瀬神社」の社号標。
境内は砂利が敷き詰められているようで、
白くて明るいのだ。
神代、祭神・大己貴命が
北陸平定を終え、出雲へ戻る時に、
自らの御魂を国魂神として鎮め置いたのがはじめ。
故に、能登の気多大社と同神であると考えられている。
また、一説には、祭神は高麗より渡って来た神であり、
社前の川で足袋を濯いだので、「たび川」と呼ぶ。
祭神は、大己貴命と天活玉命、五十猛命であるが、
創祀由来の違いによって、異説があり、
『神祇宝典』『特撰神名帳』では、大己貴命一座。
『神名帳考證』では、五十猛命一座。
『神祇拾要』では、天活玉命一座。
『越中式内井式外之覚』では、素盞嗚尊・五十猛命の二座。
諸説を総合して、現在の祭神になったようだ。
中世期、戦乱のため衰退したが、
前田家の保護を受け、現在に至る。
神紋に関しては、実は確認できなかった。
(というより、確認を忘れたのだ)
大鳥居に菊の紋を見つけて、「これが神紋」と確信したためだが、
後で資料を確認すると違っていた。
『神社名鑑』では、稲穂とあり、
『神紋』では、雉。
『官國幣社例祭と由来と神紋』では、蒲穂に兎の紋。
撮影していた神馬像の紋は、よく確認できず。
はたしてどれが正解なのか、どれも正解なのか、どれも違うのか。
紋として面白い図案なので、菊と雉と兎の紋を掲載しておいた。
電話して聞くのが手っ取り早いのだが・・・
大鳥居 | 境内入口 |
境内 |
社殿前の鳥居と橋 | 稲荷社 |
拝殿 |
本殿 | 功霊殿 |
越中一宮 高瀬神社 御鎮座二千年の由緒ある古社 御祭神 当神社の御祭神は、大國主命(大己貴命)を主神に天活玉命、五十猛命を祀り、末社三社と礪波地区の村々里々に鎮座されます氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の神々を奉斎したお社でございます。 大国主命、縁結び、国土開拓、農耕の神様です 天活玉命、無病息災、延命長寿の神様です 五十猛命、産業の神様です 御社殿 千鳥破風と唐破風が巨木の森に調和よく建つ当神社の御社殿は、昭和十七年より数ケ年の計画で建立される予定で工事が始まり、基礎工事が終了した昭和二十年八月終戦を迎えGHQ(極東軍司令部)の司令によって国費による建立が中止され、往古の面影は消滅し、参拝する人の数は皆無といった状況であり、こんな姿を憤慨された地方の崇敬者有志の方々が多額の浄財や樹齢数百年の銘木を御寄進下され、社殿建立の情熱にささえられて、昭和二十二年に御本殿(流造)、翌年(昭和二十三年)に拝殿(入母屋造)更に昭和六十二年に唐破風の向拝殿が完成し、鎮座二千年の歴史を偲ぶ御社殿の完全な竣工を見るに至ったのです。 氏子崇敬社 氏子は現在井波町大字高瀬の百余戸でありますが、古来近郷十一ケ村の人々は春秋の例大祭には仕事を休み神社へ参拝する習慣がありました。現在、御神徳の昂揚によりまして県内は云うまでもなく遠く北海道、甲信越、北関東から崇敬者の方々が参拝されます。 宝物殿と大鳥居 昭和五十九年、礪波市在住の岩川毅氏の御寄進により十一月竣工し、六十年には小矢部市在住の西田東作氏によって参道の大鳥居が寄進され、天皇陛下御在位六十年祝賀記念事業として二年間に亘り施工されたものであります。宝物殿には古来当神社に伝わる御神宝等を収蔵しております。また、大鳥居は六月三十日の大祓式に御奉写された大祓詞を収納致し大鳥居の下をくぐる人々の罪穢を祓い清めております。 手水舎 昭和四十五年に伊勢神宮より御下附され神宮(外宮)から移築された建造物であります。手水舎の中にあります水鉢は新潟県只見川上流より運ばれた自然石でつくられ洗心の禊場であります。自然石の裏に「水神」の文字が刻まれております。 功霊殿 御社殿に隣接する功霊殿は礪波地方から出征され戦場で護国の英霊となられた方々と、地方開拓の功労者合せて六、四〇〇余柱の御霊を昭和二十四年に合祀したお社であります。御本殿は当神社の旧本殿で天保七年(約一五九年前)の建立で井波彫刻の粋を尽くしたものであり文化財の指定を受けております。 齋館 平成三年八月に完成した当神社で一番新しい建物であります。齋館と云いますのは祭に奉仕する神職達が祭に奉仕する前に参篭して潔齋(心身を清浄にする)館舎です。この館舎は小矢部市在住、ゴールドウィン社長西田東作氏と会社の皆様の御支援によって建立されたのです。 社務所と境内 昭和四十年鎮座二千年を記念し造営されたもので鉄筋平屋造りの社務所で和洋折衷のモダンな(六百六十平方米)建物であります。近年会議室等の内装を整え結婚式その他にも利用され喜ばれています。 境内地には樹齢数百年の杉の巨木の森は過去の歴史を語りかけ、四季を通して野鳥の声が森林の中に響き参拝者の耳を楽しませてくれます。境内樹木の若木は各地から崇敬者の方々が植樹されたものであります。 御鎮座の由緒 御鎮座の年代は不詳ですが景行天皇の御代だとも言われています。 天武天皇の御代に当神社へ勅使を遣され、その後、光仁天皇宝亀十一年に従五位に更に、清和天皇貞観元年に正三位後、治承四年に正一位に列されると共に多くの社領荘園があり皇室の御領となったこともあるようです。神社の氏子の地名、大宮司、神子畑、勧学院など往事の面影を偲ぶことができます。戦国時代に入ると、往古の繁栄はいづこへ、社頭は荒廃し人心も乱れた時代でした。江戸時代になると崇敬厚い加賀藩主の保護により神威は昂揚し、明治六年に県社となり大正十二年国幣小社に列せるに至り翌年十三年に摂政宮(先帝陛下)の勅使が御参拝になり、昭和二十年終戦と共に国民の幸を祈るよう勅使の御参拝がありました。現在初詣をはじめ季節の移り変る節目の祭典や神事に多くの崇敬者が参拝になります。 −『平成祭データ』− |