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八木神社
やぎじんじゃ
新潟県三条市大字北五百川37
八木やまのこかげ涼しく わき出し清水は神の恵みとぞおもふ
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式内社 越後國蒲原郡 伊加良志神社 |
新潟県三条市(旧下田村)にある。
五十嵐川に沿って走る289号線が、
川を越えて北へクランク状に曲がった所。
八木鼻と呼ばれる場所にある。
八木鼻全体が社地だそうだ。
南面して赤い鳥居が建ち、木々の茂る参道を歩く。
拝殿前、両脇に境内社が二つ。
左に神明子安神社(天照皇大神、木花咲耶姫命)。
右に不動堂と書かれた火神社(迦具津知命)。
八木大明神と守門大明神の二社相殿。
八木は「米」に通じるとして倉稲魂命とされており、
守門は、門守の豊磐間戸命と櫛磐間戸命。
創立年代は不詳。
守門大明神は、大同二年(807)の勧請。
往古は八木山の山頂にあったとも言われている。
新田氏とゆかりの神社で、
神紋も新田氏の紋「丸に一引両」。
参道には、新田義貞の後裔重基卿の歌碑がある。
八木やまのこかげ涼しく わき出し清水は神の 恵みとぞおもふ
神恵泉歌碑というらしい。
合祀されている雨生神社(高靇命)は「まごい」と読む。
大蛇伝説と雨乞い信仰で有名だったが、昭和4年、閉村により合祀。
社頭 | 社号標 |
鳥居 | 扁額に「守門 八木」 |
参道 |
社殿 | 源(新田)重基卿の歌碑 |
神明子安社 | 本殿覆屋 | 拝殿 |
火神社(不動堂) | 石祠 |
○○ 勧請 神域である八木ケ鼻は、すでに原始の頃に神霊の 降臨があって、崇拝の対象とされ、その頂上には、 かつて一社が建立されていたという。 また、麓の岩窟からは縄文式遺跡も検出され、生 活の痕跡を見ることができる。いっぽう、五十嵐川 対岸段丘上の「御渕上遣跡」は岸壁の真向いで、先 人たちの生活と信仰を物語っている。 大同2年(807)、「八木大明神」と「守門大明神」 が二社相殿でまつられたと伝えられている。 ○○ 御祭神・由緒 ・八木大明神 倉稲魂命(食物稲作の神) ・守門大明神 豊磐間戸命、櫛磐間戸命(門戸守護の神) ・新田義貞、義顕、義興、義宗(新田父子四朝臣の命を南北朝後に合祀) ・大山祇命 (昭和45年、吉ケ平集落閉村により大山祇神社を合祀) ・高雨龍命 (同上、雨生神社の祭神) ・誉田別命 (昭和55年、大谷集落閉村により大谷神社を合祀) ・天照皇太神(昭和55年、大江集落閉村により神明社を合祀) ○○ 八木・守門について ・「八木」は米の字に通じ、食の神である倉稲魂命 を主祭神とする八木大明神がこの地に祀られた。 ・「守門」は、門戸を守護する神である磐間戸命の 神威を表し、この郷の中心地に位置する八木ケ鼻 に鎮座されたものである。邪鬼の侵入を防ぎ、郷 内の安全と平穏をつかさどる守護神である。 当地では「守門岳」と符号するが、「巣守神社」とは、御祭神がまったく異なっている。 ○ 新田氏と八木神社 新田義貞が足利氏との戦いで越前藤島にて戦死後、 遺児で四男の義宗は、越後勢を頼りに最後まで転戦 したと伝えられる。その戦跡は粟岳山麗一帯に及び、 当社地にもゆかりが深く、崇敬の念厚く、新田義貞 父子が八木神社に合祀されたのである。 本殿には新田父子四神像が安置され、新田氏の紋 所である「丸に一引両」が当社の神紋となっている。 また、境内には天保九年(1838)、新田氏の後裔で ある源(新田)重基卿が当地にて詠んだ歌碑が、文久 3年に当地の有志によって建立されている。 ○ 雨生(まごい)の信仰と大蛇祭 ・旧吉ケ平の雨生ケ池(まごいがいけ)は、江戸時代から大 蛇伝説と雨乞い信仰で広く知られていた。大蛇の嫌 金物を一切使わなかった雨生神社も今は無いが、そ のご祭神は吉ケ平の鎮守様と共に、そっくり八木神 社祭られている。毎春各地から雨生のお札を受けに 参拝者が訪れている。 平成10年夏、下田ふるさと祭り“雨生の大蛇祭”行 列が開始され、八木神社で発進祭の後、おおにぎわ いの中行進した。 −八木神社由緒より− |
【 八木神社(印刷用ページ) 】