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箱崎八幡神社
はこざきはちまんじんじゃ
長崎県壱岐市芦辺町箱崎釘の尾触823
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式内社 壹岐嶋壹岐郡 月讀神社 名神大 |
長崎県の壱岐、芦辺町にある。
勝本から芦辺港へ向う23号線沿いにある。
箱崎小学校の200m西。北向きの鳥居から階段を登る。
式内月讀神社と高御祖神社の論社だ。
現在、月讀神社と称する式内論社が他に存在し、
高御祖神社と称する式内論社も他に存在しているが、
この両社の査定は、江戸時代橘三喜による誤りであるとされている。
吉野氏(壱岐氏の裔)文書によれば、
原初オンダケ山に鎮座し、その後、山を下りて上里の東屋敷、
下里の辻、新庄村の宮地山と遷座し、元禄十三年(1700)
現在地、箱崎村根低(もとかぶ)山へ落ち着いた。
オンダケ山は、男岳山と書かれ、現在猿田彦を祀る男岳神社があり
多くの石猿像で有名な観光地だ。
また、イヲツリ(五百鳩)山、磯山とも呼ばれ、
『和漢三才図会』には、当社は「礒山権現 礒山にある。祭神一座 竜神
聖武天皇の神亀年中に現われる。」と記されている。
現社名、箱崎八幡は、筑前筥崎宮を勧請した結果。
『日本書紀』顕宗天皇三年二月条に、阿閇臣事代が任那に使し、
壱岐を通過した際、月神が人に著って託宣した。
「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。
宜しく民地を以て我が月神に奉れ。若し請の依に我に献れば、
福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏す。
奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は山背国葛野郡に在り。
壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。
『式社略考』には、
「高御祖神社は箱崎村にありて、八幡神社の別殿に高皇産霊を祀る。」
とあるように、月神が、その祖高皇産霊は同じ場所に祀られていた。
壱岐七社参拝の一社。
七社とは、白沙八幡・興神社・住吉神社・本宮八幡・箱崎八幡・国片主神社・聖母宮。
入口の鳥居をくぐって、階段を登ると、少し広くなっている。
そこの鳥居をくぐって、もう一度階段を登った所に社殿がある。
桜の花も、そろそろ終わりだ。
境内右手に境内社があり、幾つかの社を合祀しているようだが、
詳細は不明。
境内入口の鳥居 | 参道の鳥居 | 境内から参道 |
階段上の鳥居 | 拝殿 |
境内 |
本殿 | 境内社 |
八幡神社
位置 芦辺町箱崎釘の尾触祭神 豊玉毘古命、玉依毘売命、品陀和気命、仲日売命、息長帯日売命、帯仲日子命、天月神命、天比登都柱命、高皇産霊神 由緒 『神社明細帖』に「八幡神社、平戸藩崇敬全国七社ノ其一ナリ、但式外氏子七百四十四戸」「社地三反 八畝十五歩半、但無税、造営民費、旧藩ヨリ白銀七枚ノ寄附アリ」「摂社六社亀丘大神宮、椿山神社、丘坂神社、 塩釜神社、小松原神社、貴船神社。末社三社男岳神社、大神宮、恵美須神社」、『壱岐国神社田畑帳』に「八幡 宮、宗廟、社領高二石祭米六舛六合新田之内ニ而高三斗三舛三合付居」と記されている。 海裏宮、海裏八幡宮、八幡大神海宮、磯山権現とも言う。正慶元年(一三三二)の金箱銘「箱崎八幡宮壱岐国壱岐郡月読宮釣瓶荘潮安郷 奉造立内殿一宇大宰少弐兼筑後守藤原景資」、あるいは永禄九年(一五六六)の御殿造営の棟札「奉新造八幡御宝 殿矣右意趣者奉為天下泰平国土豊饒殊者社頭不朽倍増威光別者正守護松浦肥前守源隆信并護持檀那日高甲斐守源 喜益々大願成弁……大檀那源隆信判、護持願主源喜判」、また再建ごとに藩主より白銀七枚の奉納などから、「往昔 ヨリ式内ノ大七社ト称セシヲ延宝年間平戸藩主ノ命二依テ式社改メアリ其時式外トナレリ」とする『神社明細 帖』の言棄が首肯できる。『壱岐神社誌』も「最初式内月読神社として創立あり、次で海神の配祀又は龍神の合 祀等によりて龍神又は海裏宮となり、下りて八幡神の配祀ありて全く八幡宮の社号の下に其他の社号を蔽はれ、 為に延宝四年の査定に過りて式外に列し奉りし者と云ふべし。されど古来式内月読神社なるが故に国主の崇敬及 国民の信仰は社号が式外八幡神社となりても聊も異なるところなく嶋内の名社たるの事実は毫も失墜する事これ なき也」と、記されている。 勧請鎮座については「聖武天皇神亀元年甲子秋九月十三日海神山之現干磯山」(『壱岐国神社総覧』)とも、「桓武天皇 延暦六年(七八七)西戎襲来ニ依リ以詔命奉鎮座ト云始男岳山ニ鎮座」(『社記』〉とも伝えられている。そうして、 「はしめハ上里にあり、其後下里の辻に遷座し給ふ吉野大宮司山本太郎丸これを掌る、其後箱崎邑と新城邑と互 に闘諍に及ひ遂に箱崎より新城を攻落し、其鎮護として八幡宮を新城邑の宮地といふ所に遷座なし奉る……元禄 十一年戊寅(一六九八)八月箱崎瀬戸両邑の産子会集評議して曰、八幡宮を箱崎本郷に還幸なし幸らんことをこひ 願ふといへとも、神慮はかりかたくむなしく多年を送る……還幸あるぺきの御鬮を得…(元禄十三年)四月七日 城代長村三左ヱ門新地見分ありて釘丘殿上田山に相定り八日より造営」(『続風土記』)を開始し、八月三日に新殿 に遷座となった。現在例祭は旧八月二十三日である。 明治九年(一八七六)十二月村社となり、大正五年(一九一六)九月神饌幣帛料供進神社に指定せられた。 −『芦辺町史』− |