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竹大與杼神社
たけおおよどじんじゃ
三重県多気郡明和町大字大淀乙1
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式内社 伊勢國多氣郡 竹大與杼神社 |
三重県の明和町にある。
近鉄明和駅の北西5Kmほどの大淀に鎮座。
713号線を北上し23号線を越えて60号線に入って西へ進み、
大堀川を越えて200mほどで海側(北東)へ入った場所に境内にある。
境内入口は北東向き。
鳥居の右脇に「延喜式内竹大與杼神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり参道を進むと右手に手水舎。
参道奥に当社の社殿が南東向きに並んでいる。
拝殿は切り妻造平入で、背後の垣の中に神明造の本殿。
拝殿の右手には祓所と大霊社(護國の英霊)。
左手には豊歳稲荷神社(宇賀魂神)と山神、橿原神宮遥拝所などがある。
参拝は三月中旬。
天気の良い日の正午頃。境内に茂る木々の木漏れ日が暖かい。
そんな参拝だった。
『倭姫命世記』によると、垂仁天皇の御代、
皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉載し、飯野の高宮より五十鈴川上に行幸のおり、
佐々牟江宮から大淀浦を航行の際、風浪がなくて海水が「大与度に与度美」て
御船の航行が安全であったため、倭姫命は大いに喜んで大与度社を定められたという神社で、
式内社・竹大與杼神社に比定される古社。
竹大與杼神社の竹は多気郡の意味で、多気郡の大與杼神社ということらしい。
かつては大与杼社と称し、
当地の産土神として海神である豊玉彦命を奉斎すると伝えられていたが
現在の祭神は建速須佐之男命。
明治の神社明細帳には従来二天八王子と称されたとの記述があるためだろうか。
明治四年神宮制度改革まで、皇大神宮の八十末社の一つであり、神宮が管理した社であった。
明治三十九年十二月二十五日、神饌幣帛供進社に指定され、
翌明治四十年十二月五日、境内社狭霧神社をはじめ地区内二十五社を合祀し
竹大與杼神社と単称。
上記の二天八王子は、この狭霧神社のこととする説もある。
昭和二十六年九月二十七日、合祀されていた天保七年創祀の豊歳稲荷神社を
境内社として分祀した。
『三重県神社誌』によると当社の神紋は花菱。
拝殿内の賽銭箱にも花菱紋の金飾りが付けられていた。
社頭 |
境内 | 社殿 |
社殿 |
山神、橿原神宮遥拝 | 拝殿 |
本殿 | 本殿 |
境内 |
豊歳稲荷神社 | 大霊社 |
竹大與杼神社 参拝のしおり 当社の創立は垂仁天皇の26年秋、皇女倭姫命が皇大神宮の鎮座地を求めて、佐々牟江行宮から、御遷幸の際、この大淀浦を航海の時、風浪がなく海水が、大与度美に淀んで、御船の航路が安泰であったので、命は大いに悦ばれて、この地方の総氏神として、大淀の宮を定められたと伝えられています。 延喜式内社に列し、神祇官より幣帛を奉献されました。明治4年神宮制度改革まで、皇大神宮の80末社の1つであり、神宮が管理された社です。 −『平成祭データ』− |