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結城神社
ゆうきじんじゃ
三重県津市藤方2341  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

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旧別格官幣社

御祭神
結城宗廣
配祀 結城親光以下殉難戰沒將士

三重県津市にある。
阿漕(あこぎ)駅の南東1Kmの藤方に鎮座。
このあたりは結城町とも呼ぶようだ。

23号線から東へ入って300mほどの場所に境内。
参道入口は西側にあるのだが、ひょっとすると東側にもあるかもしれない。
とにかく、僕は西側から入った。
鳥居をくぐり、参道を歩くと、右手に津八幡宮。
さらに歩くと、左手に垣に囲まれた南向きの境内。

境内に入ると正面に社殿がある。

境内の左手に梅苑があるが、梅苑の中に、
祭神・結城宗広公の墳墓。
贔屓の上に石碑が立っており、石碑には「結城神君之墓」と刻まれている。

当社の祭神・結城上野介藤原宗広公は、
北条家の家臣として、陸奥白河(現在の福島県白河市)城主であり、
入道して道忠と称されていた。

元弘三年、後醍醐天皇から倒幕の綸旨を受け、
新田義貞公と協力して鎌倉幕府を倒し、建武の中興の大業を助けられた武将。

その功績により、北畠顕家と共に奥州方面の統治を任されたが、
延元元年、足利尊氏が京都に攻め入ったため、
義良親王を奉じて、北畠顕家と共に軍を率いて足利軍を攻めた。

九州に逃れた尊氏が再起を果たし、京都を制圧するにおよび、
南朝勢力再起のために、吉野から奥州へ向う途上、
遠州灘にて暴風雨の難に遭われ、延元三年(1338)
当地・伊勢の国に薨ぜられた。

当初、墳墓の塚の上に六体の石地蔵が安置され、
結城塚・入道塚と呼ばれていたが、
文政七年(1824)津藩主藤堂高兌により社殿が造営され、
結城明神社となった。

明治十五年一月二十四日、特旨を以て別格官幣社に列格。
建武中興十五社の一社である。

当社の神紋は、左三つ巴。

祭神墳墓の左に、結城医王大明神(地主社)の小祠があるが、
梅苑の西側にも、結城医王大明神という神社がある。
小祠がオリジナルだろうか。


境内入口

境内

社殿

結城宗広公墳墓

墳墓の側に結城医王大明神の小祠

墳墓

梅苑からみた本殿

結城医王大明神

福松稲荷大明神



昔の社殿を写した絵葉書

御祭神 結城宗広公 配祀 結城親光卿一族殉難将士

由緒 結城上野介藤原宗広公は陸奥白河(現在の福島県白河市)の城主、元弘三年後醍醐天皇 の綸旨を奉じ新田義貞公と協力して鎌倉幕府を亡し建武の中興の大業を助けられ 賞として鬼丸の太刀を賜り故郷に錦を飾り奥羽の平定に労苦を捧げられましたが、 足利尊氏再び京都を犯すに到りましたので陸奥の宮義良親王を奉じて北畠顕家 公と共に錦旗を翻して陸奥の大軍を率いて西上せられましたが南風競はず再度の 旗挙も終に遠州灘ぼ暴風雨に阻まれ其の志を得ずして当地に薨ぜられ時に延元三年(一三三八) 秋深く御年七十三才といわれております。
沿革 現在地は公の終焉の地で、往昔地元民により墓側に「結城明神」と称える祠が建 てられ俗に「結城医王大明神」と唱えて「航海安全」「病気平癒」に霊験あらたかであり ました。幾百の星霜を経て文政七年(一八二四)津藩主藤堂高兌はその忠節を慕われ 社殿を改築墳墓を整備して祭祀費を津藩の支出とした。明治十三年御巡幸に当り勅使 参向同十五年一月二十四日特旨を以て別格官幣社に列せられ壮大なる諸社殿が建立され御神威 いよいよ高まり昭和十二年には宗広公六百年大祭が斎行されました。昭和二十年七月戦災 により諸建物一切烏有に帰しましたが崇敬篤き人々により復興、昭和六十二年秋六百五十年 大祭に当り正本殿、社宝館等竣工し社頭の整備、梅苑の開設が行われた。
祭礼 一月十日 初えびす
二月〜三月 しだれ梅祭
五月一日〜三日 例大祭
宝物 結城神社文書、刀剣其の他宝物三十余点
社宝館に展示されている。
神域 約一万坪、結城宗広公御墓、日本一の狛犬(銅製)北村西望作
神苑しだれ梅 約三百本植栽
境内末社 えびす社、稲荷社、金刀比羅社、秋葉社、須賀社、塩釜社

−境内案内板より−



結城神社略記
御祭神
贈正二位 結城宗広朝臣
配祀結城親光卿一族殉難将士
御鎮座地
津市大字藤方字八幡二三四一(結城町)
御事歴
結城上野介藤原宗広公は陸奥白河(現在の福島県白河市)の城主、入道して道忠と称された。元弘三年大塔宮の令旨並に綸旨を奉じて後醍醐天皇に忠義を尽くされ新田義貞公と協力して鎌倉幕府を亡し建武の中興の大業を助けられ賞として名刀鬼丸の太刀を賜わり故郷に錦を飾り奥羽の平定に労苦を捧げられました。延元元年足利尊氏再び京都を犯すに到りましたので義良親王を奉じて北畠顕家公と共に錦旗を翻して西上せられましたが南風競はず再度の旗挙げも終に遠州灘にて暴風雨の難に遭われ其の志を得ずして当地に薨ぜられました。時に延元三年(西紀一三三八)十月五日、御年七十三才といわれております。
沿革
当社は昔地方民が「結城明神」と称えて宗広公の御墓側に小さな祠を建て、御神徳を受けました処から始まり、俗に「結城医王大明神」と唱えて航海安全、病気平癒に霊験あらたかでありました。数百の星霜を経て寛永九年津藩主藤堂高次が千歳山より此地に八幡神社を遷祀せられた後も古社八幡宮と称し産土神と同様崇敬されておりました。明治十三年三重県御巡行の折幣帛料の御下賜あり、次いで明治十五年一月二十四日特旨を以って別格官幣社に列せられ荘厳なる諸殿舎が建立され、国家の宗祀として御神威いよいよ高まり昭和十二年宗広公六百年祭斎行に当たっては全国民の熱誠なる奉賛によって境内の整備社殿の改築が行はれ面目を一新いたしましたが惜しい哉昭和二十年七月二十八日戦災により御本殿以下諸建物一切烏有に帰しました。戦後昭和三十一年復興第一期、三十三年第二期工事竣工、続いて社殿以下附属建物等が整備されました。
神域
約一万坪
御墳墓(社殿西にあり)
総坪 二百三十六坪 総高 十三尺二寸(御影石)
往古は塚上に石地蔵六体が安置してあり、結城塚或は入道塚と称されておりましたが文政七年藤堂高兌公深く宗広公の忠徳を慕い結城明神社殿再建と同時に湊川楠公の碑に倣って墳墓を修理し地蔵を台石に埋め石柵を設け墓碑を建て自ら「結城神君之墓」と染筆し背面には藩儒津坂孝綽に命じて宗広公の忠義を旌表する碑文を詳録せしめられた。
皇室の御崇敬
明治十三年七月五日 三重県御巡幸の砌勅使荻侍従御参向祭粢料御下賜
明治十三年九月六日 本社修建の儀聞食され宮内省より金二百円 有栖川宮始め八家より御造営資金御寄付あらせられる
明治十三年十月 神宮祭主久邇宮朝彦親王殿下神嘗祭御参向の帰路御参拝、玉串料奉納
明治十五年六月 一品有栖川宮熾仁親王より「結城大神」御神号 親筆奉納
明治二八年十一月十七日 平和克復御奉告のため神宮御親拝に際し特に野崎内大臣秘書官を勅使として御差遣幣帛料御下賜
昭和九年三月 李王垠殿下御参拝
昭和十二年五月一日 御祭神六百年祭に付宮内省より幣帛料御下賜 秩父宮 高松宮始め各宮家より幣帛料御奉納
昭和十四年五月 梨本宮守正王殿下御参拝
昭和二四年十月十九日 北白川神宮祭主様御参拝
昭和二六年十一月九日 天皇陛下三重県御巡幸に付幣饌料御下賜
昭和五十年六月十八日 鷹司神宮祭主様御参拝
昭和五十年十月二四日 天皇皇后両陛下三重県下行幸啓に付幣饌料御下賜
昭和五十年十月二九日 高松宮宣仁親王殿下御参拝
昭和五五年五月二二日 天皇皇后両陛下三重県下御巡幸に付幣饌料御下賜
建造物
社殿(本殿、幣殿、拝殿)桧造銅版葺 五十八坪
斎館、社務所 桧造銅版及瓦葺 四百二十坪
参集殿 木造瓦葺 九十坪
剣道場(結武館) 木造瓦葺 八十坪
相撲場 一棟 五十坪
石鳥居、社号標 四日市市将棋名誉名人小菅剣之助寄進
狛犬(鋳銅製) 北村西望作 四日市市伊藤伝七氏寄進
石燈籠 津市内全小学校児童寄進
石玉垣 延八十間 御木本幸吉寄進
手水舎 桧造銅版葺 一棟 川村久光寄進
宝物
結城神社文書(三重県文化財) 後醍醐天皇綸旨 外四十六通
刀剣類 来国光 一口  相州行光作脇差 一口  外二口
御祭神着用鎧大袖  軍中旗
後醍醐天皇下賜紫旗 その他

−『平成祭データ』−



【 結城神社(印刷用ページ) 】

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