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苅田神社
かりたじんじゃ
島根県大田市久手町波根西1942−2

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島根県大田市にある。
JR久手駅の北500mほどの波根西に鎮座。
波根一帯は、かつては波根湖(日本海に面した海跡湖)であり、
しばしば氾濫していたが、昭和になって干拓工事が開始され、
現在は農地となっている場所。
当社は、昔は、その波根湖の南岸の神谷山に鎮座していたが、
住民が北岸の海岸近くへ移住し、神谷山も湿潤地であり、
参詣が不便になったため、昭和三年に現社地へ遷座した。
境内入口の鳥居をくぐり、階段を上ると広い参道があり、
さらに階段を上ると正面に社殿。
拝殿の左手に祖霊社があり、拝殿後方の垣の中に本殿。
社伝によると、宇多天皇の御代、寛平七年の創祀。
苅田首の祖神を祀る神社であり、式内社・苅田神社に比定されている。
上記のように、かつては現在地の南2Km(鈴見あたりか)に鎮座。
神谷山にあり、神谷明神とも神田明神とも呼ばれていた。
神谷山には、直立の大岩(烏帽子岩)があり、
その岩が鎮座の地であるという。
現社地は、もと大元神社のあった地で、
宝暦年間から修験僧が住みついて、行者山と呼ばれていたが、
当社遷座に際して、当社に合祀された(国常立神)。
当社に関する伝承がいくつかある。
1.当社御神体の木像は、「菅丞相の一刀刻み」、
つまり菅原道真により彫刻されたという。
2.当地方には「神盗み」という習俗があり、
盗んできた神の霊験が高いという。
当社も、稲用の里と、しばしば神璽争奪が行われたという。
3.神谷明神は雷よりも恐ろしいといわれ、
波根浦立神岩の下を、穢れた者が乗る船が通ると、
たちまちに転覆すると。
4.波根湖の東に大津という部落があり、大津屋という豪族があった。
いつの時代か、この家は断絶したが、当社の旧祭日の夜、
その大津上空に怪火が出現し、神谷山へ往来する。
これは、大津屋の怨霊が、当社明神へお詫びに参るのだという。
祖霊社の他にも、幾つかの境内社がある。
階段下には享保の飢饉の時、住民を救って自刃した「芋代官さま」を祀る井戸明府。
本殿の左手には、幸神社と大神山神社。
大神山神社には、大年神社と道祖神社が合祀されている。
当社の神紋は、曲玉三つ巴。
由来はわからないが、三柱の神を象徴しているのだろうか。
境内入口 |
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境内参道 ![]() | 階段上に拝殿 ![]() |
拝殿 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
祖霊社 ![]() | 拝殿 ![]() |
道祖神社・大神山神社・ 大年神社 ![]() | 幸神社 ![]() | 灯籠に神紋 ![]() |
井戸明府 |
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御由緒
−社前案内板− 当社は昔から加利多明神という延喜式内の神社であります。苅田の大神は、御神名の示しているとおり、農業畜産を主宰せられ、五穀豊穣の守護神であります。この地方における式内社の中でも物部神社に次ぐ重要な地位にあり、上古から年々国幣が献ぜられました。とりわけ旱魃や長雨等による天候不順の時とか、病虫害発生の甚だしい時に於ては国司・郡領が命じて当社の祭祀を厳重に行わせ、御神護を祈ったと記録されています。更に病魔悪災を刈りとって下さる御霊験があるとして、往古から地方民の格別篤い信仰が集まった神社でもあります。現存の苅田神社々記によれば、第五十九代宇多天皇の寛平七年、当町鈴見の里、神谷山の烏帽子端(えぼしばな)という大巌石の上に、既に御鎮座になっていたといわれますから、創建の時は更に遠い以前のことでありましょう。その後、万寿三年寅の洪水といわれる、前古未曾有の大水害があり、山は崩れ谷は裂け、波根湖が大氾濫しました。当社の本殿・拝殿・楼門・回廊を始め末社等悉く漂流しましたが、幸い御神体の内二体が、矢代柳の大樹にかかって、それを奉遷することが出来ました。こんどは神谷山の麓に社殿を造営しましたが、これより昭和三年まで、実に壱千年の間の、御鎮座の地となりました。 又当社の御祭神の内に、倉稲魂命さまがおいでになります。この神様は、一般的には正一位稲荷大明神と申して、商売繁盛、福徳開運十種の神様として、庶衆の信仰の厚いところであります。然しながら、この神様も亦、本来、稲作の神様であり、苅田の大神様とは表裏一体をなす御神格であります。 明治四十年には、久手町や柳瀬(やなぜ)の里に、それぞれの鎮守さまとして祭っていた両所の大元神社が、政府の指導に基づいて、当神社に合祀されました。御祭神は国常立命と申し、国土創世にお出ましになり、万物万象を生成化育し調和を掌り給う神様であります。この苅田神社が、永い間、神谷山麓に鎮座されたわけでありますが、その間、当神社の御霊験があらたかとて、御神徳を慕った大田、稲用、久利方面の百姓たちが、御神体を持ち出そうとして、神社の争奪に及んだという伝説が残っているのも、誠に面白く意義深いことと申せましょう。然しながら神谷山麓は、名に負う湿潤地帯で、建造物にとってふさわしからぬ所でありまして、且つ時代の変遷と共に、氏子の生活圏の中心が、旧山陰道筋から、次第に海岸線へと移り行くにつれて、早くから神社移転の要望が出て来ました。やがて、それが運動へと盛り上がり、関係筋への陳情を重ねた結果、ようやく認可を頂き、昭和三年の春、歴史的聖地神谷山麓から、現在地へと御動座になりました。 −『平成祭データ』− |
