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大須伎神社
おおすぎじんじゃ
愛媛県今治市高橋乙358−3
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式内社 伊豫國越智郡 大湏伎神社 |
愛媛県今治市にある。
今治駅から南西に5Kmほど、蒼社川を遡り、
玉川町との境に近い、高橋に鎮座。
境内入口の階段を登ると、
鳥居があり、広い参道が続く、
丘の上に境内があり社殿が立つ。
蒼社川の洪水により、社殿が流出し、
近年になって、現社地へ遷座されたもの。
古社地は、字倉橋にあるといい、児童公園になっているという。
境内に河上安固の腰掛岩がある。
河上安固は宝暦年間、権現山のこの岩の上に座って
蒼社川の流れを調査し、蒼社川治水を成し遂げた人。
創祀年月は不詳。
蒼社川の洪水のため、社運が衰退し、
村内の小社となっていたという。
現社地は、伊予熊野権現があった場所で、
当地に、大須伎神社と、小林八幡宮を合祀し、
社号を大須伎神社として、現在に至る。
社殿には、葵の紋が付いていたが、
本殿の玉垣には、葵・三つ巴・茗荷の紋が刻まれていた。
合祀された諸社の紋だと思う。
河上安固の腰掛岩 |
境内入口 | 参道の鳥居 | 参道 |
社殿 |
境内社殿 |
当社は推古天皇の四年(約一.四〇〇年前)厩戸皇子の神号の 扁額を親書奉納ありし程の名神にして上古より官民の崇敬 厚く醍醐天皇の勅命を以て毎年幣帛を奉ることとなっていた 天皇は延喜十二年左大臣藤原忠平に勅し全国から神徳殊に 顕著な名神二.六六一社を撰び延喜式神社名帳に記載しこれを 式内社と称し県内に二四座今治越智地区に七社あり大須伎神社 は其の一つにして昔時より参拝者多し 伊予熊野神社は初代藩主定房公以来歴代藩主の祈願所として 崇敬厚く社殿を造営し御初穂料を奉納される等特別の御縁故 あり藩制時代から祭礼には賑わしい行列が行われていた 小林八幡神社は国司玉純項の尊崇厚く神領水田を寄進された 明治四十四年社殿を此の地に奉遷し伊予熊野神社小林八幡 神社を合祀す 前の社地は児童公園として現在に至る
−社頭案内より− |
社殿の左手に、さらに上へ続く道があり、
林の中の道を登ると、稲荷神社がある。
稲荷神社境内の右手に、小さな展望台があるが、
周囲の木々が高くて、上っても、あまり見晴らしは宜しくない。
その展望台の根元の生垣の中には、雨乞石。
かっては、御宝松という松もあったらしい。
稲荷神社参道 | 展望台 | 雨乞石 |
稲荷神社本殿 | 稲荷神社社殿 |
稲荷神社の御由緒
此の山の顛の稲荷神社は慶長の昔藤堂高虎
候が山城国伏見稲荷神社を勧請せられた御
社であります。始め高虎候が今治城を築城の
時方数間もある荘麗無比の社殿を建てられ、
この御神霊を城内に祀られたが程なく国替え
となり、初代久松定房候が城主となるに及んで
御信仰ことの外厚く寛文十年伊予熊野神社
を再興せられた時社殿を建てて稲荷神社の
御神霊をここに遷されました。代々の藩主は二月の初午祭と十一月の例祭 ごとに近臣を使わして御代拝せしめた他、 毎年一度ずつ自ら御参拝になって幣帛を奉り 厚く御尊崇になられました。 高虎候が計畫した百分の一の模型は現に此の 殿内に奉安してあります。これは定房候が今治 城内よりここに奉遷せられたものであります。 −境内案内より− 雨乞石
古代から大旱魃の年には、村民が此の石の許に
集まって、雨乞祈祷を行った。その時不思議に
も此の石が潤い、くぼみに水滴ができ、大降雨
となって恵みの雨を戴いたと伝えられている。御宝松
この石積の中に御宝松と称する樹齢百年を経
た老松があった。 その昔これを切ろうとし
た時、一羽の鳥飛来して鳴いて切らさず、
爾来村民はこれを御宝松と称して崇めたが樹
齢つきて枯死した。その鳥の止まった御宝松
の姿を描いた狩野某の絵は、当社の宝物とし
ていたが、昭和二十年宝物庫の戦災で焼失し
た。御宝松の跡に実生した二代松も松食虫の
被害を受けたため現在の松を移植した。−境内案内より− |
【 大須伎神社 (今治市)(印刷用ページ) 】