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本宮神社
ほんぐうじんじゃ
静岡県熱海市伊豆山
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式内社 伊豆國田方郡 火牟須比命神社 |
静岡県熱海市にある。
熱海駅の北3Kmほどの伊豆山に鎮座。
伊豆山神社の北にある、子恋の森公園の北西にあり、
伊豆山神社と岩戸山の中間地点。
言葉では、うまく説明ができないが、
団地の最深部へ入っていくと、境内の裏手(西側)に到着する。
車を停めて、少し歩くと境内。
鳥居は、境内の南東方向(伊豆山神社方向)にあるので、
表参道はそちらになるのだろう。
ちょっとした公園のような境内の西隅に赤い社殿が立っている。
ベンチも設置されており、境内が公園に似た印象なので、
社殿は東屋のような雰囲気だが、
後方には、小ぶりの赤い本殿もある。
創祀年代や由緒に関する資料は未入手のため、
わからない。
伊豆山神社の由緒によると、
往昔、日金山(久地良山、十国峠あたり)に鎮座していたといい、
その後、日金山より四十丁ほど下った牟須比峯に、
新たに御社を建て、中の本宮と称し、
日金山の社を上の本宮としたという。
さらに、現在地に遷座(三遷)し、新宮として、
伊豆権現・走湯権現と称するようになった。
しかしながら、火の山への信仰であるならば、
山頂に神社があったとは考えにくく
牟須比峯(中の本宮)が本来の位置であろうと思われる。
というわけで、牟須比峯(七尾あたり)付近の地図を見ていると、
本宮神社という名の当社があったので、参拝。
たぶん、当社が、その中の本宮であるとは思うのだが、
確認していないので、違うかもしれない。
『増訂豆州志稿』によると、中の本宮の小祠を再度遷座して、
伊豆山神社境内の雷電社(あるいは若宮社)としたともある。
また、伊豆山神社資料によると、境内摂社に本宮社があると記されているが、
僕が見落としたのか、伊豆山神社には見当らなかった。
ひょっとすると、その摂社・本宮社が当社なのかもしれないが、
これも未確認。
当社の周辺にある、子恋の森は、
『枕草子』にも、「杜はこごひの杜」とあり、
昔からホトトギスの名所であったという。
鳥居 | 境内 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
伊豆山神社略誌
関八州総鎮護 当社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝え、延喜式神名帳に所載の火牟須比命神社は、当社のこととされております。 社伝によると当社は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。十六代仁徳天皇が勅願所となされてより二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられております。大正三年一月十三日、皇太子であられた昭和天皇御参拝の砌り、親しく若松一株御手植えを賜わりました。今、社頭左側に亭々と聳えております。 大正七年に宮内省から基本財産の一部にと、金参万円の御下賜をいただき、又、昭和三年秩父宮家をはじめ、高松、久迩、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の御寄進をいただき、又、昭和五十五年九月十二日に皇太子浩宮徳仁親王殿下の御参拝をいただいております。 平治の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで、篤く当社を崇敬し、箱根と共に二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、 一、武州 吉田三ヶ村 野中村 一、相州 柳下郷 小田原寺家方金目庄 一、上州 渕名庄半分 一、豆州 丹那郷 田代郷 大田家村 春木村 蛭島郷 白浜郷 初島領家職熱海松輪村東湯屋 山木郷 山上地 平井薬師堂 馬宮庄領家職 仁科庄内田畠 松下田畠 一、駿州 富士村寺 聖一色 伊賀留美 一、越州 国分寺 右の如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文書「寺領知行地注文」に記されておりますが、その社領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。 かくて北条、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、家康江戸開府に先立ち、二百石を寄進し、次で慶長になって百石と、併せて三百石の朱印領を寄進して崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。 昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出され、官社として御神威いよいよ高くいましたが、終戦後神社制度も廃されて宗教法人として新たに発足し、今日に至っております。 猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る染塵秘抄に「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられます。 御神徳 一切の生物の親神として、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護り、産業、事業、経営の護り、良縁の護り、殊に禊道、錬成の御導きの御神威は著しく、火防鎮火、温泉守護の御神徳弥高くまします。 社殿 源頼朝の再興以来、将軍又は領主の寄進により、度々改修されておりますが、現在の社殿は昭和六年より同十一年に亘り、内務省の手によって本殿、拝殿、階殿、神饌所、手水舎、雷電社等の修造、並びに整備が行われました。建物は総朱漆塗、一部極彩色で、細部の彫刻等は見事な出来映えです。 境内社 東鑑に光の宮と記されている摂社雷電社、摂社本宮社、末社白山社、同足立社、同結明神社が鎮座。又、飛地境内社として摂社走湯神社があります。 神木梛及び神湯梛の湯 社頭の左右に梛の木があり、この葉を所持すれば願い事必ず叶うといわれ、又、男女の仲を結ぶ外、交通安全、災難除、入学成就の守りとして信仰されております。 梛の湯の源は、社殿横の宝物庫に近く在り、歌人の左左木信綱博士が、神木梛に因んで「梛の湯」と命名されました。御神威によって湧出した神湯で、社務所に引湯し、奉仕者の潔斎に用いております。 宝物 後奈良天皇御宸筆心経一巻(国重文)古剣一口(国重文)八稜鏡各六面(県文)経巻、経塚出土品(県文)神像、古文書等百余点。 付近名勝 般若院、興亜観音、走り湯、岩戸山、日金山、十国峠、伝斉藤別当実盛の墓、伊豆山温泉。 参拝順路 JR熱海駅から伊豆山神社前までバス(伊豆山神社行、又は七尾行)で約七分。駅前バスターミナルから発車、別に伊豆山温泉経由、神社行の循環バスもでています。 −『平成祭データ』− |