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美談神社
みたみじんじゃ
島根県出雲市美談町182
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式内社 出雲國出雲郡 美談神社 |
出雲市(旧平田市)、旅伏山の東南麓、美談町にある。
431号線沿いに鳥居があり、階段上に境内。
431号線を東へ行けば宍道湖、西へ行けば出雲大社。
ちょうど中間地点になる。
創祀年代は不詳。
式内社・美談神社に比定される古社で、
出雲国風土記には「彌太彌社」とある神社。
建長年中、出雲国守佐々木次郎左衛門泰清の七男・広田頼清が
八幡宮を勧請合祀し、以後は正八幡宮と称していた。
祭神は、経津主命、武甕槌命、息長足姫命。
息長足姫命は、上記八幡宮の祭神であった。
「式社考」などが祭神としている和加布都努志命は
「所造天下大神御子」とあり、大国主命の子である。
明治五年村社に列した。
相殿の比賣遅神は、式内社・同社比賣遲神社の祭神。
出雲国風土記に「彌陀彌社」とある神社。
昔は、西谷の奥の鎮座し、若宮大明神と称していたが
中田に鎮座していた縣神社に合祀され、
慶応三年(1867)、当社境内に遷座。
その後、本殿に合祀されたようだ。
出雲国風土記には、神祇官在籍の「彌太彌社」「彌陀彌社」とがあり、
さらに、神祇官不在の「彌陀彌社」が十社(あるいは十二社)記されている。
神祇官在籍の「彌太彌社」が、当社・美談神社、
神祇官在籍の「彌陀彌社」が、合祀の比賣遲神社。
神祇官不在の「彌陀彌社」は、すべて境内末社の彌陀彌社二社に祀られている。
神紋は、社名から「丸に美」。
鳥居 | 階段わきの社号標 |
拝殿 | 拝殿 |
本殿 |
本殿の左には式内社が、右には風土記記載社がそれぞれ祀られている。
左の二社は、印波神社(天手力雄命 太玉命)と
縣神社(天穂日命)+和加布都努志神社(和加布都努志命)。
右の祠には、小早川神社(小早川正平・隆景)と
二つの彌陀彌神社(大山咋命・木花咲耶姫命、櫛御氣野命・大地主命)。
彌陀彌神社二社には、風土記記載の彌陀彌社十二社が合祀されている。
さらに右横に、社日社がある。
境内社の印波神社は、式内社・印波神社であり、
出雲国風土記に「伊波社」、あるいは「伊爾波社」とある神社。
東谷に鎮座し、印場明神と称していたが、
明治四十二年、当社境内に遷座した。
境内社の縣神社は、式内社・縣神社であり
出雲国風土記に「阿我多社」とある神社。
今在家の国長に鎮座していたが、寛永の洪水で流れ
享保十一年(1726)、中田の地に再興し比賣遲神社を合祀。
さらに和加布都努志神社を合祀して、当社境内に遷座したという。
縣神社に合祀された和加布都努志神社は、式内社・和加布都努志神社。
出雲国風土記に「縣社」とある神社。
本殿左 印波神社 と 縣神社+和加布都努志神社 | 本殿右 小早川神社、彌陀彌神社二社 と 社日社 |
境内には他にも石祠がある | 灯籠が祀られていた |
彌太彌社・美談神社といふ社名は、中世
以後のものにはほとんど現れてこない。享保二年(一七一
七)の『雲陽誌』にも、美談村の條には正八幡宮・松尾明
神・印場明神・若宮などとは記されてゐるが、彌太彌社と
か美談神社といふ社名は記されてゐない。これより少し先
に成つた天和三年(一六八三)の『出雲風土記鈔』にも、
「彌太美社・阿加多社・伊波社・彌陀彌社・縣社、此五社
(中略)伊波神社ハ見今在美談村、餘外四社蓋可有今在家
村」とあつて、伊波社以外は現在の、つまり當時の今在家
村にあるべきだとまではいつてゐるが、そこの何社である
とはいつてゐない。といふことはすでに容易に知り難い状
態になつてゐたといふことであらう。 しかるに天保四年(一八三三)の『出雲神社巡拝記』美 談村の條には「同村八幡宮合殿、記云彌陀彌社、式云美談神社、祭神ふつ ぬしの命・たけミかづち命」とし、「當社祭神ハわかふつ ぬしの命なるべし。扨又當みだミの社ハ八まん宮に合殿と あるハ誤り也。八まん宮を此美談社に合祭りたる也」と説 いてゐる。これはいかなる根據によつていふことであつた かわからないが、ただこれとほぽ同じころに成つた千家俊 信の『出雲國式社考』にも「美談神社、風土記に彌陀禰社と あり。東林木村より十八町計東なる美談村美談紳社今楯縫郡に属。 祭紳未考。風土記に、美談郷、所造天下大紳御子和加布都努志命」云々と説いてゐるので、このころになるとすでに 八幡宮の名はあつても、それとともに古来の美談紳社の名 も再顯するに至つてゐたものと思はれる。かくして明治維 新に至り、この社では社名を美談神社の昔に戻すこととし た次第である。 久しくその主神の座にあつた八幡宮は、『巡拝記』によ れば「建長年の頃、佐々木次郎左ヱ門泰清の七男廣田頼清 の此の八まん宮を勧請せらしと聞ぬ」といふのであるか ら、要するに當國守護職鹽冶氏の系累によつて勧請された ものであつた。されば武家時代においては、その蔭に古代 以来の在地の守護神がかくれたまふのも、またやむを得ぬ ことであつたと思はれる。 明治五年、村社に列せられた。 −『式内社調査報告』− |