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本村井神社
もとむらいじんじゃ
石川県白山市村井町マ1−1
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石川県白山市にある。
白山市役所の南西1Kmほど。8号線の南に鎮座。
西から東へ参道が延び、突き当たりに境内。
享保元年の「本村井神社略由来」によると、
昔、当地に「村井」という井戸があった。
子供が度々落ちて危険なので、その井戸を潰したところ、疫病が流行。
陰陽師の占いによって、井戸の祟りを鎮めるため、
大宝2年(702)社殿を立てて、国に大功のあった少彦名神を祀ったのが創祀。
「平成祭データ」では、井戸が池となっているが、ストーリーは同じ。
寛文5年(1665)火災により社殿を焼失。
金沢野町にある神明宮に、御神体を移していたが、
明治5年、古社地に社殿を復興し、現在に至る。
近世には、春日明神と呼ばれており、祭神には春日四柱神が含まれている。
また、薬師さんと呼ぶ場合もあったようで、これは祭神・少彦名神によるもの。
案内の看板や、境内の神馬像には、菊紋が付いていた。
ただ、境内にあった古い屋根瓦には、井筒に本の字の紋が付いていた。
神紋としては、菊紋が正しいのだろうと思うが。
冬の日の参拝。曇天。
参道の木々が、寒さを物語っている。
社殿周囲には雪が残っていた。
参道 |
境内入口 |
拝殿 | 境内にある大宝二年創祠神殿旧跡 |
境内社 | 本殿 | 境内社 |
神馬像に菊紋 | 古い瓦に井筒紋 |
本村井神社由緒
創設は千三百年前 本村井神社は、およそ千三百年前、奈良朝時代はじめ大宝二年文武天皇の時代に創設されました。当時は旧本殿の跡より8号線バイパス、樋爪地区にかけて大きな池があったそうです。 子供達が遊んでいて、たびたび池に落ちて命を失ったので、村人達は埋めてしまいました。 やがて付近の村人達に悪い病気がはやり、農作物も毎年不作となり、大変困りはててしまいました。 時に村内の豪士『後に村井備中神九郎と名乗り、代々神職をつとめました』が、この惨状をなんとかしなければと天の神、地の神に日夜祈り続けたといい伝えられています。 祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと) ある夜、豪士の枕もとに神があらわれ「村人がこのような災難にあうのは前にあった池を埋めてしまったたたりである。いますぐにも池のあったところに神社を建て、国土建設に功績のあった神々をまつれば、ただちに災難から免れて、幸福な日々をおくることができる。私の名前は少彦名命である。」とお告げがありました。 翌日、豪士は村人達を集めて、この神のお告げを話しました。 早速、神社を建てて少彦名命をたてまつりました。 村人達は誠意をもってその神徳に感謝をし、参拝を続けました。 やがて悪い病気もなくなり、元のとおり豊作が続いたといわれています。 広大な社地と村井の地名 村井備中神九郎は戦国時代の終わり頃から代々神職をつとめました。 現在の中村地区の〔シンクロダ〕と呼ばれているところに住居がありました。 また、武衛地区の西方に郷田(ゴウデン)と呼ばれるところがありますが、村井備中神九郎の弟がこの付近に住み、豪士として神社につとめていたともいわれています。 このことから社地がかなり広かったことが想像されます。 そのころ広大な社地には老杉がおい茂り、周囲には再び大きな池ができていました。 この池は川から流れ込んだものか、雨水がたまったものかはあきらかではありませんが、村人達はこの水で作物を作り、飲料水として使っていました。 まさに村人達の命の綱、村人達の井戸でした。 これが村井の地名の由来です。 二度の大火をうけて 寛文五年(1665年)江戸時代、原因不明の出火があり神社が全焼しました。 かけつけた村人達は御神体を金沢市野町の神明宮に移しました。 そして一五〇年を経た文政十年(1827年)に再建されました。 朝廷より「本村井神社」の社号を賜わりました。 しかし御神体は神明宮におかれていましたので、二年毎に神明宮より移すことを例としました。 明治五年四月、村人達が協議して、御神体を元の本村井神社に迎えようと、神明宮の神主に申したて、厳重な儀式の後、元のところへもどることになりました。 実に火災にあってから二百年も経てからでした。 しかし、明治十六年十二月九日(1883年)再び火災にあい、みこし、祭具一切を消失しました。 明治二〇年に再建 村人達は嘆き悲しみました。 前よりも大きく立派な社殿を造営することで、敬神の誠意をあらわすことにしました。 明治二〇年に再建され、明治四〇年には境内社旧八幡社祭神応神天皇、菅原道真を本社へ合祀、境外社旧市杵島姫社祭神市杵姫命を合祀、境外社や稲荷社祭神宇賀御魂をそれぞれ本社の相殿として祀りました。 そして昭和一〇年には本殿が改築されて現在に至っています。 近年、氏子各位、篤志家の好意により境内や付属物の大改善、新設がなされました。 しかし、社殿はすでに百年を経過しており老朽化が進んでいます。 特に昭和の三大台風による老木の倒壊が本殿屋根部分を破壊変形し、そのままとなっています。 また社殿基礎部分も沈下部分が最近めだつようになってきました。 氏子総代により毎年修復維持管理につとめてきましたが、近い将来には平成の大改築が必要となっています。 −『平成祭データ』− |
【 本村井神社 (白山市)(印刷用ページ) 】