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青沼浅間神社
あおぬませんげんじんじゃ
山梨県甲府市青沼3−5−2  Zenrin Data Com Maps display !!



式内社 甲斐國八代郡 淺間神社 名神大
旧村社

御祭神
木花咲耶姫命

山梨県甲府市にある。
甲府駅の南東2Kmほどの青沼に鎮座。
358号線を南下し、青沼通りと呼ばれる通りを東へ進み、
青沼通りの南側、総合市民会館の東隣りが当社の境内なのだが、
社前の道は北上のみの一方通行なので、青沼通りから南下できないので注意。

境内は東向き。
石造の鳥居には「淺間社」と刻まれた扁額。
鳥居をくぐると左手に手水舎があり、正面に社殿。社殿の右手に神楽殿がある。
社殿の扁額には「淺間神社」とあり、
当社の正式名は浅間神社のようだが、山梨県には浅間神社が多いためか、
鎮座地名を冠して、通称、「青沼浅間神社」と呼ばれているようだ。
また、境内の外の看板には「青沼鎮座浅間神社」と書かれていた。

参拝は四月の午後、東向きの境内なので西に傾いた太陽に向かって参拝することになり、
写真を撮るのに、ちょっと苦労した。
現在の社殿は戦後、氏子の方々の浄財で再建されたもの。
本殿は確認できなかったが、拝殿の後方(内部)に納まっているのだろう。

古くに野良浅間神社とも称された神社。

社伝によると、清和天皇貞観七年(865)の創祀。
武田家をはじめ武門の崇敬篤く、黒印地十一間四面、高三石三升壱合を有していたが、
明治四年上知され、明治六年村社に列した。

三代実録によれば、貞観六年五月二十五日、富士山の大噴火があり、
これは、富士山を祀っていた駿河国浅間神社の神職の怠慢であるとして、
富士山北側にある甲斐国でも、浅間神を祀るべしと、
貞観七年十二月九日、勅により甲斐国八代郡に浅間明神の祠を建て官社とした。
「勅。甲斐國八代郡立淺間明神祠。列於官社。」
また、十二月二十日、甲斐國山梨郡にも浅間明神を祀ったとある。
「令甲斐國於山梨郡致祭淺間明神。一同八代郡。」

『日本の神々』によれば、当社は式内社・浅間神社の論社ではあるが、
山梨郡に祀られた浅間明神であるといわれているらしい。

当社の神紋は桜紋。
賽銭箱や神楽殿、社殿のあちこちに桜紋が付けられている。


社頭

鳥居

社殿

社殿と神楽殿

境内社

社殿

社殿扁額

桜紋

社記
御祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
大山祇命の御女にて天孫瓊瓊杵尊の妃で あらせられ 皇室の始祖 大祖母と仰ぎ奉る大神なり
御神徳 安産の神、防火の神、災厄除の神、家内安全、 交通安全、婦道の神として敬仰し奉る。
御由緒 貞觀七年平安初期 西暦八六五年 人皇第五十六代清和天皇の御代 山梨郡稲門東青沼村 現在地 に建立す。 爾来千百余年の 歳月を得、当初は武家の信仰 厚く黒印朱印社領を有し崇敬 奉祀極めて鄭重にして明治四年村社に 列せられたり、現在の社殿は昭和二十年 の戦災の後、氏子千三百余名の浄財 に依り再建したるものにて神社本庁 の所属になる。古くより野良浅間社 と傳えられしが、現在は青沼浅間神社と 稱す。
御祭典
歳旦祭
建國祭
禊祭
例大祭
七五三詣
除夜祭
一月一日
二月十一日
七月二十日
九月二十二日・二十三日
十一月十五日
十二月三十一日

−社頭由緒書−



浅間神社 由緒書掲示板
貞観7年今を去る1,119年前人皇第56代清和天皇の御代山梨郡稲門東青沼村(現在地)に建立す。
以来千余年の歳月を得て当初は武家の信仰厚く黒印朱印社領を有し崇敬奉仕極めて鄭重にして明治4年村社に列せられたり。
現在の社殿は昭和20年の戦災後氏子430余名の浄財に依り再建したるものにて神社本庁の所属になる古くに野良浅間神社と伝えられし由。現在は青沼浅間神社と称す。

−『平成祭データ』−
「430余名」は「千三百余名」の千を4と誤記したものだろうか



【 青沼浅間神社 (甲府市)(印刷用ページ) 】

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