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加太春日神社
かだかすがじんじゃ
和歌山県和歌山市加太1342  Zenrin Data Com Maps display !!


下がり藤


三つ巴

旧村社

御祭神
天児屋根命 武甕槌神 経津主神
配祀
天照大神 住吉大神

加太の町中にある。このあたりの路地は迷路のようだった。
結局、淡島神社から600mほど歩いて到着。

鳥居の前で、近所の婦人達が立ち話をしていたので、
しばらく、待っていると、すこしずれてくれたので、
撮影を開始した。よくあることだが、申し訳ない気持ちになる。

本殿には、なぜか三つ巴がついていた。神紋じゃないかも。

創祀年代は不詳。
神武天皇の御代、天道根命が二種の神宝を奉載して
加太浦に来られた時、鎮宮を設けて天照大神を祀ったのが起源であるという。
『和歌山県神社誌』によると、紀伊国神名帳に「正一位 春日大神」とある古社。

嘉元年間(1303〜1305)、
日野左衛門藤原光福が地頭としてこの地を支配し、
祖先神である春日神を新たに祀って「春日社」と称した。

以前は、現社地の東の山の中腹にあったが、
天正年間に現社地に遷座。

昔は住吉社とも呼ばれていたらしい。
淡島神社の祭神は少彦名だが、
他の説として、天照大神の6番目の娘の「婆利塞女」を祭神とするものがある。
婆利塞女は住吉大神の妻だったが、帯下の痼疾があったため棄て去られ、
ここ加太の地に流れ、祀られたというもの。
そのため、婦人病やお雛様の神と呼ばれている。
ここに住吉が祀られていたのは、その関係かもしれない。

一間流造の社殿は、昔は極彩色であったそうだ。
役行者が友ヶ島を行場として開いた時に守護神として祀った神社。
だから、明治以前は修験道色が濃かったようだ。

境内社として『和歌山県神社誌』には
稲荷神社、賽神神社、須佐神社、蛭子神社、八幡神社、
八王子神社、布留神社、白龍神社の名が載っている。


境内入口

境内

鳥居

重要文化財指定の本殿

白龍社

稲荷社

布留社

 加太の市街地にある。祭神は天照大神天児屋根命武甕槌神経津主神住吉大神。旧村社。 社号は奈良春日大社と同じく、藤原氏の祖神で ある、天児屋根命を祀ることから生じたものであ ろう。「続風土記」は毛見浦浜宮(現和歌山市)の 項に「国造家旧記曰」として、神武天皇東征の際、 神鏡と日矛の二神宝を託された天道根命が、ま ず加太浦に到着したという話を載せ、この時の 頓宮が加太春日神社であったとしている。「延 喜式」神名帳にはみえないが、「紀伊国神名帳」 には「正一位春日大神」と記されている。また住 吉大神を祀ることから、中世には住吉神社とも 称されていたらしく、文保元年(一三一七)六月 二九日付預所某田地寄進状(向井家文書)にみえる 「賀太庄住吉社」は当社のこととされる。
 社地は「紀伊国名所図会」によると現社地の東 の山の中腹にあったが、天正年中(一五七三−九 二)豊臣秀長の家臣で和歌山城代桑山重晴によ って現社地に移されたと伝える。現在当社に蔵 される棟札にも「紀州海部郡加太浦春日明神正 殿並鳥居等造進之事、所加下知也 慶長元年丙 申十一月三日桑山修理亮正栄」と墨書されて おり、慶長元年(一五九六)に大がかりな社殿の 造作がされたことが知られる。その後、寛永一 一年(一六三四)・寛文一一年(一六七二)・元禄一五 年(一七○二)・享保六年(一七二一)にそれぞれ上 葺がなされ、明和九年(一七七二)に修復、寛政 一一年(一七九九)に修繕があり、文化八年(一八 一一)・天保一五年(一八四四)に修理が行われてい る(棟札銘)。本殿(国指定重要文化財)は一間社流 造、千鳥破風およぴ軒唐破風を付け槍皮葺。構 造をはじめ木鼻・蟇股・手挟・欄間・脇障子などの 彫刻は桃山時代の特色を示している。なおこの 本殿は本来極彩色であったが、明治初年の神仏 分離の際に染料を洗い流したという。
 社伝によると、役行者が行場として友ケ島を 開いた時、当社を守護神としたといわれ、その ため、聖護院門跡が山伏僧とともに毎年四月一 ○日に参拝することになっている。周辺住民は この日に海老を神前に供えるとともに、宴に供 することが習わしとなっており、俗に「えびま つり」と称する。現在は五月二○日に行われる。

−『大和・紀伊 寺院神社大事典』−



【 加太春日神社(印刷用ページ) 】

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