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刺田比古神社
さすたひこじんじゃ
和歌山県和歌山市片岡町2−9
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式内社 紀伊國名草郡 刺田比古神社 |
和歌山城の南、片岡の町中にあり、和歌山では比較的賑やかな場所。
入口は、住宅地の道に面しており、普通の市街地の風景だが、
参道を西へ進み、右手(北)に曲がるあたりから、
懐かしい雰囲気を感じはじめる。
参道脇や、社殿横に、多くの境内社が祀られている。
八代将軍吉宗の産土神社として、崇敬が篤い。
拝殿は、コンクリートのピンク色だったが、本殿は、小振りの流造。
神紋は、武田菱 か 四つ割菱。形は同じだが、
四つの菱形の間隔が狭いのが武田菱だ。
式内社・刺田比古神社に比定されている古社。
岡(広瀬、大新、番丁、新南、吹上、芦原)の産土神で
通称は「岡の宮」。
和歌山城鎮護の神として崇敬されている。
刺田は、現在、サスタと読むが、延喜式ではサシタと訓がついている。
祭神佐氐比古命(狭手彦命)は、道臣命の十世孫で、
大伴連榎本連の祖神であり、欽明天皇の御宇、高麗を伐って功をあげた。
二十一世孫の大伴武持が、ここに奉祭したのがはじめらしい。
道臣命は、八咫烏の先導を追って、神武天皇の先陣を勤めた日臣命のこと。
天忍日命の子孫だが、天忍日命は天孫降臨の際の先導役。
つまり、代々、先陣・先導を勤めてきた神々なのだ。
その子孫が、佐氐比古命だが、これをサタヒコと読むと、
猿田彦命に通じる。これも、先導の神、道の神。
猿田彦命は、大伴氏に繋がる神なのではないだろうか。
昔は、九頭大明神、国津大明神とも称され、
灯篭や棟札に、その名が刻まれている。
東から境内に入り、L字型に参道を進むと、南面した社殿がある。
境内には多くの境内社が並んでいる。
同名社も幾つかあり、近隣の神社から移転されたものだろう。
稲荷・金刀比羅・宇須売・小林稲荷・稲荷・弁財天・
春日・天満宮・天満社・祓戸・楠竜発達・八幡・永川。
鳥居 | 参道 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
宇須売神社・金刀比羅神社 | 稲荷神社 |
本殿横に並ぶ境内社 |
小林稲荷神社 | 稲荷神社 | 弁財天社 | 春日神社 |
天満社 | 祓戸神社 | 楠竜発達大神 | 八幡神社・永川神社 |
刺田比古神社は延喜式神名帳、紀伊国神名帳等に記載せられた古社で、岡(広瀬・芦原・大新番丁・新南・吹上)の産土神なれば通称岡の宮で知られて
いる有名な神社である。古昔道臣命十世の孫刺氐比古命(狭手彦命)より世々岡の里を采邑し、刺氐比古命二十世の裔大伴武持この
地に住むに及んで此の祖神との神霊を岡の里(今の広瀬宮の壇)に斎祀し、この地を開始経営し給いし神なれば里人等其の神徳を仰ぎ産土神と
なし、国主ノ神、大国主神と尊崇した。大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀始めて城を岡山に築き世々之に住居し、最も厚く崇敬
す。神田若干を寄附し社殿等頗る壮観を極めしが、其の後屡々兵乱に罹リ古文書、宝物等悉く紛失し社殿も殆ど廃頽し、嘉吉年
中に氏子等再び之を修造した。天正年中豊臣秀吉和歌山城を築くに本城鎮護の神社となし大伴の後裔岡本左介を茲に社司となす。
秀長、城代桑山修理亮重晴をして修造せしめ岡本左馬助家長を神官とした。更に文禄三年神社を聖武天皇の岡の離宮の跡なる現地
に移した。其の後浅野幸長本国を領し尊崇旧に変らず。元和年中徳川南龍公本国に入るや最も厚く崇尊し社殿を修復し清淫公始め
の産土神なるにより寛永年中よリ延宝年中、大小社殿を造営し松生院の別当職を除き唯一神社なし神官の邸を社の側に移し居らし
めて奉仕を厳にす。其後名草郡岡村にて社領を寄付せられ神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任す。
続いて吉宗公八代将軍に登閣するや当社は公の産土神にして周防守長諄は誕生の時の仮父なるにより特別に崇敬を尽され開運出世
の神と敬信し、享保年中常府より名草郡田尻村にてニ百石の朱印地を寄附し、神社境内の殺生を禁じ、黄金粧飾の大刀壱振(国宝)
神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とし爾来年に壱万度の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々三年に一回上東し、将軍に謁
せしが後、代替、継目等皆江戸に下りて拝謁する例とせり。よって社殿其他悉く整い、氏子の尊信益々厚く神徳弥営にて、明治六
年四月県社に列せられ崇信日々に広く神威赫々であったが、昭和二十年七月九日の戦災に、御神霊のみ安泰にして社殿、古物古記
録等悉く鳥有に帰しぬ。されど、氏子等の敬信日に深く旧に復し神社の復興せり。
−『刺田比古神社御由緒略記』より− |