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都麻津姫神社
つまつひめじんじゃ
和歌山県和歌山市吉礼911  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 紀伊國名草郡 都麻都比賣神社 名神大 月次新嘗
旧村社

御祭神
都麻津姫命
相殿 吉禮津姫命
脇殿 五十猛命 大屋津姫命

和歌山電鐵貴志川線吉礼駅の北200m。狭い道の左側にある。
境内は、わりと広く、本殿左右に脇殿がある。
が、本殿そのものは良く見えなかった。
辛うじて屋根だけ撮影できたが、それだけなので、掲載はなし。

式内社・都麻都比賣神社の論社の一。

祭神都麻津姫命は、素戔嗚尊の子であり、五十猛命の妹神。
素戔嗚尊が全身の毛を抜いて木々とし、
兄姉神達(五十猛命・大屋津比賣命)と植えたとある。

本来は、日前国懸神宮の鎮座する秋月に鎮座していたが、
垂仁天皇十六年、山東の地、亥の杜に伊太祁曾神社と共に遷座された。
さらに『続日本紀』によると、大宝二年二月、
伊太祁曾神社の五十猛命・大屋都姫命・都麻津姫命の三神を分離。
都麻津姫命は分祀されて、現社地に遷されたという。

明治には、県の命令で、吉禮津姫神社と改称させられていたが、
式内等に記載されている都麻津姫神社であるとされ、
昭和になって、相殿に吉禮津姫命を祀るようになった。
吉礼という地名からすると、この地の産土は吉禮津姫命の方だろう。
玉突き状態になって、吉禮津姫が脇へ追いやられた。そんな感じか?

垣の間から、脇殿は撮影できたが、本殿は難しい。
境内には、他にも稲荷などの境内社があったが、
詳細がわからなかった。


鳥居

拝殿

境内

社殿

脇殿 五十猛命

中門

脇殿 大屋津姫命

境内社

境内社

 吉田本には「都麻津比賣神社」(名神大月次新嘗) とあり。『紀伊國名所圖會』に「都麻津比賣神社、山東庄 吉禮村にあり祀神五十猛命、都麻津姫命、大屋津姫命三座 云云」。『紀伊續風土記』に「吉禮大明神社、末社二社、 妻津姫神社、五十猛神 大屋津姫神社云云」とあり。また當神社の神社 明細書に依れば、「(前略)寛文年中延喜式ニ所載ノ都麻津 姫神社ナリト稱シテ奉祭シ來リシヲ和歌山縣令達ニヨリ吉 禮津姫神社ト改稱セラル明治六年村社ニ列セラレ明治四十 一年九月十四日幣帛供進使ノ神社ニ指定セラル然ト雖左右 兩社ニ五十猛命大屋津姫命ヲ祀ルヲ見レバ日本書記三代實 録神祇全書紀伊名所圖繪南紀名所誌ニ載ル都麻津姫命ナル コト考證セラルルニ依り宗教法人法設立セラルヽニ當リ社 名復舊シテ吉禮津姫命ヲ合記シ昭和二十一年二月一日ヨリ 都麻津姫神社ト稱スルコトトナレリ。」と記されてゐる。

 御鎮座の由来は、日本書紀神代巻上に「時素戔嗚尊子號五十猛命。妹大屋津姫命。次抓津姫命。凡此三神 亦能分布木種。即渡奉紀伊國。」とある。續日本紀に「文 武天皇大寳二年己未。是日分遷伊太祁曾、大屋都比賣、都 麻津比賣三神社。」とある。

 神階は、『紀伊續風土記』に「本國神名帳名草郡從五位 下吉禮津姫神。」『紀伊國名所圖會』に「本國神名帳云從 一位都麻津姫神。三代實録曰貞観元年正月廿七日都麻津比 賣神從四位下云云」とあり。

−『式内社調査報告』−



【 都麻津姫神社 (吉礼)(印刷用ページ) 】

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