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金鑚神社
かなさなじんじゃ
埼玉県児玉郡神川町二ノ宮750
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埼玉県神川町にある。
JR児玉駅の西5Kmの二の宮に鎮座。
462号線がカーブする場所、
南側に境内入口の大鳥居が立つ。
境内に入り、川に沿って
ゆるやかなのぼりの参道を歩くと、
左手に駐車場があり、参道の右手、丘の上に
木々に囲まれて、国指定重要文化財の多宝塔。
大鳥居 |
参道の鳥居 | 参道 |
駐車場そばに多宝塔 |
金鑚神社多宝塔
所在地 児玉郡神川村二の宮
金鑚神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけ
ら葺き、宝塔(円筒形の塔身)に腰屋根がつけられた二
重の塔婆である。天文三年(一五三四)に阿保郷丹荘の豪族である阿保 弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三甲午八月晦 日、大檀那安保弾正全隆」の墨書銘がある。 この塔は、建立時代の明確な本県有数の古建築である とともに、阿保氏に係わる遺構であることも注目される。 塔婆建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、 国指定の重要文化財となっている。 −境内案内板− |
参道を進み社務所の横を過ぎると、
小川にかかる赤い欄干の橋の向こうに鳥居が見え、
鳥居の奥、正面に神楽殿。
神楽殿前で参道を右に折れると、
神体山・御室ヶ嶽を背後にした拝殿がある。
拝殿の後方には、垣に囲まれた場所があり、
通常の神社であれば、そこに本殿があるはずだが、
当社は、奈良の大神神社、長野の諏訪大社同様、
本殿を持たない珍しい神社なのだ。
旧官幣中社であり、武蔵二宮と称される神社。
これは、氷川神社を武蔵一宮とする時期の二宮という意味で、
小野神社が武蔵一宮であった頃には、
氷川神社は三宮、当社は五宮であったと思われる。
社伝によると、景行天皇の四十一年、
日本武尊東征の帰途、東国鎮護のために、
伊勢神宮の叔母である倭姫命から
草薙剣に副えて、賜った火鑚金(火打石)を御霊代として、
御室ヶ嶽に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀。
その後、欽明天皇二年に、日本武尊を合わせ祀ったという。
延暦二十年に、坂上田村麿が夷賊討平を祈願し、
永禄六年には、源義家が奥賊を祈願したといい、
東国平定の基点として、古代から重要な意味のあった神社なのだろう。
「金鑽」の社名は、社伝にあるように、
火打石(火鑽金)が御魂代であることから起ったとする他に、
金鑽=金砂と見る説もある。
御嶽山(御室ヶ嶽)は、金華山ともいい、
山腹に銅を彫ったあとがあるらしく、
その銅は、黄鉄鋼を多く含んでおり、黄金色をしていたという。
その銅採掘を神格化したと考える説である。
故に、当社の祭神を金山彦命であるとする資料もある。
境内社殿には、菊紋が見られたが、
『官國幣社 例祭之由来と神紋』には、樫の葉紋と記されていた。
また『神紋』には、蔦紋(松平氏家紋)と記されていた。
残念ながら、参拝時に確認を忘れたのだが、
帰宅して写真をよく見ると拝殿前の桶に蔦紋が付いていた。
境内の左手、御嶽山へ向う途中に、
長屋状態の境内社が祀られている。
具体的な神名は、未確認だが、
『式内社調査報告』には、以下の名が記載されている。
伊勢大神社(天照大神)、熱田神社(日本武尊 外四柱)、
氷川神社(素盞嗚尊外二柱)、祓戸神社(瀬織津比賣命 外三柱)、
伊弉諾日讀神社(伊弉諾尊外二柱)、二柱神社(天児屋根命外一柱)、
五柱神社(石凝度賣命外四柱)、火産霊神社(火産霊命外一柱)、
大山清水神社(大山祇命 外一柱)、宮比神社(天宇受賣命)、
住吉神社(底筒之男命外二柱)、稲荷神社(倉稻魂命)、
薬師神社(大名持命外一柱)、諏訪神社(建御名方命)、
松尾神社(大山咋命)、白山神社(菊理媛命外二柱)、
八幡神社(応神天皇)、菅原神社(菅原道真朝臣)、
蚕影山神社(稚産霊命)。以上19社。
境内 |
鳥居、奥には神楽殿 | 拝殿 |
拝殿 |
境内左に境内社 | 拝殿後方、垣の中に本殿はない |
金鑚神社
所在地 児玉郡神川村二の宮
金鑚神社は、旧官幣中社で、延喜式神名帳にも名を残す古社であ
る。むかしは武蔵国二の宮とも称された。地名の二の宮はこれによ
っている。社伝によれば、日本武尊が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命 より賜った火打石を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉 納し、天照大神と素盞嗚命を祀ったのが始まりとされている。 鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉党の尊信が厚く、近郷二十 二カ村の総鎮守として祀られていた。江戸時代には徳川幕府から御 朱印三〇石を賜り、別当の一乗院とともに栄えた。 境内には、国指定重要文化財の多宝塔や、平安時代の後期、源義 家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものという伝説の 遺跡”駒つなぎ石””旗掛杉””義家橋”などがある。 なお、この神社にはとくに本殿をおかず、背後の山全体を御神体 としている。旧官・国幣社の中で本殿がないのはここのほか、全国 でも大神神社(奈良県)と諏訪神社(長野県)だけである。 −境内案内板− 金鑚神社
北武名勝史蹟案内しおり武蔵二宮金鑽神社 神川町大字二宮鎮座 神社境内は八町うち一町半が神体林で木柵がまわっている。拝殿切妻流造、祝詞舎中門があり、義家橋、駒つなぎ石、義家旗掛銀杏がある。景行天皇四十一年日本武尊東征の折、御姨倭比姫命より賜った火鑽金火打石を御室山に収めて天照大神素盞嗚命二柱を奉斎し、尊は欽明天皇の御時配祀された。貞観四年官社に列せられ、延喜式内名神大社に列した。九郷用水守護児玉党五十六族の鎮守であり、徳川時代朱印三十石、明治十八年四月官幣中社に列格した。勅使参向六回、社宝には義家奉納の琵琶二面がある。 −『平成祭データ』− |
参拝するまでは、拝殿の背後の山を
御嶽山だと思っていたが、境内の案内図では、
御室ヶ嶽のようだ。
境内の左手に進むと、御嶽山へ登る道があり、
分岐点に、御嶽山を遥拝する場所がある。
麓から300mほど、階段を登ると、有名な鏡岩がある。
八月の参拝で、ここまで一気に上って来たが、
ここで息切れ、というか、急な空腹感を感じて、
その上までは登っていない。
いわゆるハンガーノック状態。
神社参拝では、食事もあまり取らないので、
気づくと、そういう状態になることが多いのだ。
ということで、「べんけい穴」と呼ばれ、
案内図では、まるでボーリング球の穴のようなものも
あやめ池も見ていない。残念。
御嶽山入口 頂上まで500M | 御嶽遥拝所 | 御嶽山登山道 |
鏡岩 |
御嶽の鏡岩
昭和三十一年七月十九日 国指定特別天然記念物
御嶽の鏡岩は、約一億年前に関東平野と関東山地の境にある八
王子構造線ができた時の岩断層活動のすべり面である。岩面の大
きさは、高さ約四メートル、幅約九メートルと大きく、北向きで
約三十度の傾斜をなしている。岩質は赤鉄石英片岩で、赤褐色に
光る岩面は、強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩
がずれた方向に生じるさく痕がみられる。岩面の大きさや、断層
の方向がわかることから地質学的に貴重な露頭となっている。鏡岩は古くから人々に知られていたようであり、江戸時代に記 された『遊歴雑記』には、鏡岩に向えば「人影顔面の皺まで明細 にうつりて、恰も姿見の明鏡にむかふがごとし」とあり、『甲子 夜話』にも同様の記述がある。また、鏡岩がある御嶽山の一帯は、 中世の山城である御嶽城跡が所在することでも知られているが、 鏡岩が敵の目標となることから、城の防備のため松明でいぶした ので赤褐色になったという伝説や、高崎城(群馬県)が落城した時 には火災の炎が映ったとも伝えられている。このように鏡のよう に物の姿を映すということから、鏡岩といわれるようになった。 −案内板− |
『新編武蔵風土記稿には、
「古は村東、今ノ見元森ノ両社アル所ニ建シ由、
今ノ社地モ松杉繁茂シタレバ、転遷モ古キコトナルベシ』とあるらしい。
この古社地は、当社の入口大鳥居から北東へ300mほど、
462号線そばの金鑽集会所の敷地内にある。
樹齢700年ほどの大欅の傍らに、
御室ヶ嶽に面して、
八坂神社と並んで元森神社が祀られている。
神社境内の写真は、夏の8月に参拝した時のものだが、
下の写真は、冬になってから参拝したもの。
葉が無かったので、大欅は枯れている印象だったが、
生きてるのだろうか。
古社地 |
八坂社と元森社 | 右横に石祠 |
扁額 | 二つの祠 |