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王子神社
おうじじんじゃ
東京都北区王子本町1−1−12
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東京都北区王子にある。
王子駅の西200mほど。
飛鳥山の北、音無川の左岸の高台に境内がある。
もう少し北へ歩くと、王子稲荷がある。
境内入口は西側で、北区役所の近く。
入口の鳥居をくぐると、木々の茂る昼でも暗い杜。
参道奥に権現造の社殿がある。
創祀年代は不詳だが、紀州熊野権現の勧請と伝え、
元享二年(1322)、当地の領主豊島氏が社殿を再興し、
若一王子宮、王子権現と称される神社。
明治以前は禅夷山東光院金輪寺が別当として奉仕していたが、
明治になって仏教色を払拭して、王子神社と社名を改め、
准勅祭社に指定された。
社殿や賽銭箱には、巴紋が付けられていた。
少し尾が流れており、流三巴紋のようにも見える。
境内の左手は駐車場になっているが、その隅に
関神社と毛塚がある。
社殿前の案内によると、蝉丸が髪の祖神として祀れているようだが、
正確には、髪の祖神ではなく、カツラの祖神のようだ。
鳥居 | 社殿 |
境内 |
本殿 | 社殿 |
社殿 |
境内隅の関神社と毛塚 |
王子神社
創建は古くに紀州の熊野権現を勧請し、元亨年中、当地領主豊島氏が「若一王子宮」を改めて奉斎した。「王子」の地名はここに由来し、付近では熊野川に倣い石神井川を特に「音無川」と呼んでいる。豊島氏以後は小田原北条氏も当社を崇敬し、朱印状を寄せ社領を寄進している。近世徳川氏の代、初代家康公は天正十九年、二百石の朱印地を寄進し、将軍家祈願所と定めた。この後代々将軍の崇拝を受け、「王子権現」の名で江戸名所の一つとなる。 三代家光公は寛永十一年、社殿を造営し、また林羅山に命じて当社縁起「若一王子縁起絵巻」を作らせている。 八代吉宗公は紀州出身で、紀州熊野権現の勧請である当社を崇敬し、元文二年に飛鳥山を寄進。桜を多く植えて、庶民遊楽地とした。これが今日の「花の飛鳥山」となった。 曾て社殿は森深く昼なお暗い幽寂地であり、「太田道灌雨宿の椎」をはじめ、勝海舟の練胆話も伝えられている。現在の社殿は戦後復興したもので、昭和五十七年に、壮大な権現造として竣工した。 八月斎行の例大祭は「槍祭」とも称する。祭礼日、神前の小槍を持ち帰り家に掛け置くと「運を開き、災を除く」といわれる。また伝承では、家光将軍就任を祈願し、乳母春日局も当社に槍を奉納したと伝えられる。 祭礼は三日間続き、故事に基づき、「御槍」の授与があり「大祭式」「御輿渡御」「田楽舞」と諸儀式が行われる。 例大祭に奉納される「王子神社田楽舞」は貴重な儀式を含み、各地の田楽の中で、最も古雅なる一つといわれる。昭和五十八年に四十年ぶりに復興し、昭和六十二年に「北区無形文化財」に指定された。 「王子田楽衆」の手になるもので八人の稚児舞である。儀式は「田楽行列」に始まり「露払」「七度半」と続き、「田楽十二番」奉納となる。一・中門口(ちゅうもんぐち)、二・道行腰筰(みちゆきこしささら)、三・行違腰筰(ゆきちがいこしささら)、四・背摺腰筰(せすりこしささら)、五・仲居腰筰(なかいこしささら)、六・三拍子腰筰(みつびょうしこしささら)、七・黙礼腰筰(もくれいこしささら)、八・捻三度(ひねりさんど)、九・中立腰筰(なかたちこしささら)、十・搗筰腰筰(つきささらこしささら)、十一・筰流(ささらながし)、十二・子魔帰(こまがえし)。 また曾ては、縁起物の田楽花笠争奪が凄まじく、天下御免の「喧嘩祭」として、異名を取っていた。 十二月六日に、当社に市が立ち「熊手市」と呼ばれる。東京最後の「酉の市」であり、多くの熊手露店が立つほか当社からも「熊手守」が授与されて、終日大いに賑わう。 −『平成祭データ』− 「髪の祖神」関神社由緒略記
毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が
自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消える
ことなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと
共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年 五月二十四日「関神社」境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助 とする。 −境内案内板− |
【 王子神社(印刷用ページ) 】