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調神社
つきじんじゃ
埼玉県さいたま市浦和区岸町3−17−25
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埼玉県さいたま市にある。
京浜東北線浦和駅の南700mほどの岸町に鎮座。
調宮(つきのみや)とも称される神社で、
調(つき)の名称から月待信仰・二十三夜と関連され
月の宮、月待の宮、月読大明神とも呼ばれ、
また、月のウサギを愛する神と考えられるようになったようで
社殿や手水舎などにウサギの彫刻があり、
撮影し忘れたが狛犬の代わりに狛兎がある。
参拝は、もう9年も前の2002年。
東京出張の際に埼玉に宿泊し、早朝、仕事の前に参拝。
急いでいたので、御朱印もいただかず、写真も数枚しか撮らなかった。
いずれ再訪することもあるだろうと考えていたが
ウサギ年の今年(2011)、年内に埼玉へ行く予定が無いので
とりあえず掲載しておくことにした。
拝殿は瓦葺入母屋造。
正確には本殿とつながった権現造らしいが、
急いでいたので本殿はよく確認していない。
境内の右手(東側)は公園になっており、
本社旧本殿の稲荷神社がある。
江戸時代中期の享保十八年(1733)に建立され
安政年間まで本殿として使用されていたらしい。
社伝によると、第九代開花天皇の時代に創祀されたという。
第十代崇神天皇の勅命によって、神宮斎主倭姫命が参向し、
この地に神宮に献上する調物を納める御倉(屯倉)を建てられた。
調物とは、諸国の産物(絹・綿・海産物など)のこと。
武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらたため、
調物の搬入の妨げになるということから、
当社には神門も鳥居もないのが特徴。
また、関東に高麗や調布などの地名が多く分布するため
帰化人である調首一族の奉祭した神社という説もある。
式内社・調神社に比定される古社。
延長五年、菅原道真が参向。
神社調の上延喜式内国祭として奉幣使来拝社と定められ
宝亀二年辛亥六月廿日、宮内小輔従五位下中臣朝臣常恣勅使奉幣を賜った。
古来、岸村六ケ村の鎮守として崇敬され
明治六年郷社に列し、三十一年県社に昇格した。
鳥居がないことを含めて、当社には以下の七不思議が伝わっている。
一、鳥居が無い。
二、境内に松が無い。
三、御手洗池(今は無いらしい)の魚は片目になる。
四、使姫兎。(兎が神使)
五、日蓮上人駒繋ぎの欅。
六、蠅がいない。
七、蚊がいない。
松がない理由として、
昔、当社ゆかりの姉弟神(天照大御神と素盞鳴尊)が来られ、
弟神は大宮へ行き、姉神が待っていたが
弟神がなかなか戻らないので「待つ事は嫌いじゃ」と言ったとか
境内の松で目を傷めたので「松は嫌いじゃ」と言ったとか。
今では正月の門松にも松はないらしい。
境内社は稲荷神社の他に金毘羅神社や天神社。
『平成祭データ』には他に四柱神社の名が載っており、
『全国神社名鑑』には、末社五社とある。
また、『明治神社誌料』には境内社として
稲荷社、氷川社、石神井社、蔵王社の名が載っている。
『全国神社名鑑』によると、神紋は菊紋。
社殿の提灯にも菊が染められている。
ただし、賽銭箱や境内の桶、社殿のいたるところに三つ巴紋も見られるので
参考として掲載しておく。
手水舎のウサギ |
境内西側入口 | 神楽殿 |
境内社殿 |
天神社 | 金毘羅神社 |
旧本殿の稲荷神社 |
由緒 略記
当社は天照大御神、豊宇気姫命、
素戔鳴尊の三柱を祭神とする
延喜式内の古社にして古くより朝廷
及び武門の崇敬篤く調宮縁起に
よれば第九代開化天皇乙酉三月
所祭奉幣の社として創建され
第十代崇神天皇の勅命により
神宮斎主倭姫命が参向此の清ら
かな地を選び神宮に献る調物を納
める御倉を建てられ武総野の初穂
米調集納蒼運搬所と定めらる。
倭姫命の御伝により御倉より調物
斎清の為め当社に搬入する妨げと
為、鳥居、門を取拂はれたる事
が起因となり現今に到る
−境内案内板より− 調神社 ご参拝のしおり 当社は延喜式内の古社にして、古より朝廷及武門の崇敬篤く「調宮縁起」によれば、第九代開化天皇乙酉三月(一、七〇〇年前)所祭奉幣の社として創建され、第十代崇神天皇の勅使倭姫命が当国高鼻郷の岸の清らかな岡を選び調物を納める御倉を建てられ、武蔵野(武蔵、上総、下総、上野、下野国即ち関東一円)の初穂米、調集納蒼運搬所と定められる。 延長五年左大臣菅原道眞参向、神社調ノ上延喜式内国祭として奉幣使来拝社と定められる(延喜の制国幣小社)寳亀二年辛亥六月廿日(一、二〇〇年前)宮内小輔従五位下中臣朝臣常恣勅使奉幣を賜う。(現在行われている例大祭の起源、明治初期の暦の改正により七月廿日に改む) −『平成祭データ』− |