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鹿島神社
かしまじんじゃ
福島県福島市鳥谷野宮畑8・9・10  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 陸奥國信夫郡 鹿嶋神社
旧郷社

御祭神
武甕槌命

福島県福島市にある。
福島駅の南東2Kmほどの鳥谷野に鎮座。
4号線の東側、大型ドラッグストア横に細長い境内がある。

境内入口は、南東向き。
入口の鳥居の左手には、
「延喜式内 郷社 鹿島神社」と刻まれた社号標。

参拝は、夏休みの午後。
当社に到着した頃から、本降りとなり
大粒の雨が落ちてきたので、
しばらくドラッグストアの駐車場に車を停めて雨宿り。
夕立だったようで、すぐに雨は止み、参拝開始。

鳥居をくぐり、木々の参道を歩く。
参道脇には、スベリ台などの遊具が設置されている。
100mほど進むと、境内の鳥居。
入口の鳥居は石鳥居だが、こちらは木製。
さらに参道を進むと、一番奥にコンクリート造の社殿がある。
社頭の案内板によると、昭和五十一年に再建されたもの。
淡い朱色が、ピンク色に見える。

とにかく細長い境内、というよりも参道が主。
参道の左側には、長くフェンスが連なり、
隣りの店の大きな駐車場がある。
昔は、さぞ広大な境内だったのだろうと想像しながら参拝する。

創祀年代は不詳。
社伝によると、延暦元年(782)、
常陸国の鹿島神宮から勧請されたという。

これは、『続日本紀』に
「延暦元年五月壬寅。陸奥國言。祈祷鹿嶋神。
討撥凶賊。神驗非虚。望賽位封。勅奉授勳五等封二戸。」
と記載されているのを根拠とするもの。

式内社・鹿嶋神社の論社の一つ。
寛永、天明元年、天保八年の火災により古記録は焼失。

『信達一統志』によると
「寛政年中神階を授け奉る者なり、勅宣正一位」とあり、
(神社明細帳では天明二年)
案内板にも、「正一位」と記されている。

鎮座地の鳥谷野は、
『万葉集』に
「等夜乃野に 兎狙はり をさをさも 寝なへ児ゆゑに 母に嘖はえ」
とあり
『続古今和歌集』中務卿親王の歌に
「みちのくの 信夫の鷹の 鳥屋ごもり 狩にも知らじ 思ふ心を」
とある地。

社殿の左手に、小さな石の祠(境内社)が並んでいる。


参道入口

境内

境内

拝殿

本殿

境内社

延喜式内社正一位郷社鹿島神社由緒
鎮座地福島市鳥谷野字宮畑八・九・一〇番地
御祭神武甕槌命(たけみかづちのみこと)
例祭日十月第一日曜日(旧十月九日本祭り)
由 緒 鎮座は延暦元年(七八二)で、常陸の國 鹿島神宮より分祀された
延喜式内社信夫五社の一社に列せらる。 「続日本紀巻三十七」に
「按ずるに桓武天皇延暦元年壬戌五日、常陸國言祈祷鹿島神討はつ
凶賊神験非虚望寛位封奉格勳五等封戸云々」とある。天明元年(一
七八一)四月火災により、同二年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立
し、同年七月光格天皇の御世、勅宣奉授し「正一位」を授けられ、
郷民勅宣社として崇敬をあつめた。その後、建替えの棟札の中に福
島城主板倉甲斐守重房の武運長久の為の祈願棟札も見つかっている
ことから古くから開運の神として崇敬が厚い。
旧社格 明治四年十月十日郷社に列せらる。明治八年九月二十七日には村社
となり、明治二十九年十二月再び郷社に列せらる。
社 殿 享保八年(一七二二)時の領主板倉勝里朝臣社殿一切を改造。
天明元年(一七八一)四月火災にて焼失。
同二年二月拝殿を建立する。
昭和二十八年(一九五三)社殿老朽化の為大改築をする。
同五十年火災にて焼失。
同五十一年(一九七六)十月鉄筋コンクリート造とし再建。
神 輿 天明二年(一七八二)正一位を奉授の折り京都にて購入する。
文化十三年(一八一五)破損のため京都にて購入する。
以後、例祭には神輿渡御を行い、昭和三十八年には大修繕を施し、
現在も若者が担ぎ、氏子全域を巡っている。
末 社境内社養蚕神社(保食命疱瘡神社(月夜見命
菅原神社(菅原道真公稲荷神社(稲倉魂命
大瀧神社(不動明王白山神社(白山比咩命
道光内稲荷(鍋冠の狐)
境外社八幡神社(誉田別命)水汲田地内
境内神苑 鎮守社
「鹿島神社、東西八間、南北弐拾壱間、本殿七尺四方、拝殿四間、
裏に松大古木三株あり、廻り壱丈余り、四方に枝葉し高さ雲間を凌
ぎ、碧樹中苔衣す、是に因って之を見れば社祠の久しく、幾百歳に
及ぶ、里人信夫一の古木と云う、其の外に松杉樅樫等数本あり」昔は
境内も廣大で多くの木々があり陰深とした鎮守の杜を形成していた。


−神頭案内板より−



【 鹿島神社 鹿嶋神社 (鳥谷野)(印刷用ページ) 】

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