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蠶養國神社
こがいくにじんじゃ
福島県会津若松市蚕養町61−1
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福島県会津若松市にある。
会津若松駅の南西1Kmの蚕養町にある。
南側にある入口から入ると石の鳥居が立ち、
参道の途中にも赤い鳥居。
その奥に寛弘七年(1010)に植えられたという御神木の
峰張桜が枝を広げている。
拝殿の右側にも二つの社殿が並んでいたが、
どういう用途の建物かはわからない。
本殿は妻入の皇子造。
熊野古道に点在する王子社に多い形式なので、
王子造、あるいは熊野造とも呼ばれるもの。
参拝は、八月三十一日。夏の終わりの夕方。
社殿前の授与所で御朱印をお願いしたが、
用意が出来ていないのか、いただくことはできなかった。
通称、こがいさま。
『蠶養國神社記』によると、
嵯峨天皇の御宇、弘仁年中の鎮座。
仁明天皇の御宇、承和年中に、
陸奥・出羽国の按察使兼鎮守将軍藤原富士麿朝臣の
奏により官社に列した。
江戸時代寛文年間に、保科正之が社殿を造営して、
吉川惟足に御神体を天羽車に封じるように命じ、
社領十石を寄進した。
福島県内には、蚕養神社が十数社存在するが、
その中心的存在が、当社・蚕養国神社だと思うが、
古代の福島は養蚕が盛んだったのだろうか。
一説には、これらの神社は、養蚕のために祀られたものではなく、
養蚕という産業を興すために祀られた神社であるともいう。
いずれにしろ、絲・綿・絹等の生業とする人々の崇敬の篤い神社。
境内の左手には境内社が並ぶ。
五社稲荷神社(倉稻魂命 配祀 猿田彦神 大宮賣神 御食津神 保食神)、
鬼渡神社(阿須波神 波比岐神)、
護忠霊社(西郷近房)、
宗像神社(大膳亮常尚 多紀理比賣命)、
和霊々社(山田清兵衞)。
神紋は、社殿や提灯についていた葵の紋。
鳥居 | 参道 | 参道鳥居 |
境内社殿 |
拝殿 | 並ぶ社殿 |
社殿 | 社殿 |
皇子造の本殿 | 皇子造の本殿 |
境内社 | 神楽殿 |
峰張桜 |
蠶養国神社 会津の蚕養様 当神社は、日本一社にして、延喜式神明帳に、陸奥国一百座の一つである。五十二代嵯峨天皇の御代弘仁二年(八一一年)鎮座にて、五十四代仁明天皇承和年中に、陸奥・出羽・両国の按察使兼鎮守府将軍藤原富士磨朝臣の奏にて、官社に例せられ、醍醐天皇の御代、延喜式選定の折、式内の社となる。一条天皇寛弘七年(一〇一一年)に、県令、石部少将道秀・堂家左京太夫憲照・石塚丹後頼春等により、社殿を草創す。その時の神官を、蚕養蔵人という。その後、兵火のため社殿炎上し神籬の境内であったが、保科正之侯が、官工、鷹谷弥十郎宗清に命じ、社殿以下を造営し、社領二十石を寄付、櫻町天皇寛保三年(一七四三年)には、正一位の極階に進まれた。文化四年、社殿焼失し、文政二年(一八一九年)松平容敬朝臣・社殿以下を、正之侯創立に写し造営、今日に至る。 社殿広壮、巨大なる境内・風致の深遂幽遠なる、会津稀有の大社にして、神威遠く他方 に及んでいる。 明治五年県社の格に加列される。春四月十九、二十日の両日の、講社祭は、年中行事の最大のものであり県内は勿論、県外よりの養蚕家、各郡養蚕連合会、技術員等、多数の参拝者が列をなし、太々御神楽を奏し、当社独特の濁酒、肴膳を供し、大いなるにぎわいを、呈するのである。 当社の濁酒は、古来より伝わりし独特の方法で醸造し、春の講社祭、例大祭に神前に、献酒し、後、直会に供宴し、参拝者に喜ばれ、日本一社、蚕養国神社の名を高めている。 境内社頭には、会津五桜の一つ「峰張桜」があり、毎年、見事な花を咲かせている。 又、当社には、古来より伝わる謡曲「蚕養宮」があり、謡曲愛好家により、謡われている。 −『平成祭データ』− |
【 蚕養国神社 蠶養國神社(印刷用ページ) 】