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一瓶塚稲荷神社
いっぺいづかいなりじんじゃ
栃木県佐野市田沼町1404  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴


宝珠

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旧郷社

御祭神
豊受姫大神 猿田彦大神 大宮能賣大神 久々能智大神 草野姫大神

栃木県佐野市にある。
東武鉄道佐野線・田沼駅の西100mほどの田沼町に鎮座。
115号線に面して、南向き(やや西寄り)に境内入口がある。

T字路の突き当たりに朱の大鳥居が建ち、
鳥居の右手に「一瓶塚稲荷神社」と刻まれた社号標。
参拝はゴールデンウィークの頃で、鳥居の脇に桜が咲いていた。

鳥居をくぐり参道を進むと、銅製らしき鳥居。
その鳥居をくぐり、階段を上ると社殿のある境内。

どっしりとした拝殿は銅板葺入母屋造。
拝殿の中に、金色の狛狐が置かれていた。

拝殿の背後、赤い垣の中の本殿は朱に塗られた流造だが、
本殿の背後に千鳥破風のある変わった形状。
本殿の後ろ、垣の中央に神門があり
門の両脇に狛犬、参道の階段や鳥居もあるので
背後から参拝しても違和感がないのが面白い。

本殿は、延宝三年(1675)、
寛政三年(1791)の火災後に再建され、
現本殿は寛政十年(1798)の再建で佐野市指定文化財。
境内右手にある西宮神社も本殿再建の頃の建物で
佐野市指定文化財らしい。

通称は、田沼稲荷神社

社伝によると、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が、
天慶五年(942)、相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神を詣で
関八州管領の地に四社を勧請し関東稲荷社と称した一社。

その四社とは、
武蔵国鴉森、武蔵国王子、上野国新禞院と下野国富士村。

その後、文治二年(1186)五月十五日、
秀郷の裔佐野荘司讃岐守成俊が唐沢城再興の際、
田沼の地に一丘を築き、
下野国富士村の稲荷大明神を勧請したのが当社。
佐野荘百数十郷の総社として崇敬された古社。

当社が一瓶塚と称するのは、
近郷近在の人々は競って瓶に土を入れてこの地に運び、
塚を築いたのでこの塚を一瓶塚、
この塚の上に稲荷の祠を建立したためだと言われている。

上記の相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神は、
松ケ岡八幡宮とも称された鶴岡八幡宮の地にあった
丸山稲荷社のことだと思うが、確認はしていない。

また、同時に勧請された武蔵国鴉森は、現烏森神社
武蔵国王子は、現王子稲荷だと思うが、
上野国新禞院はどこだろう。群馬県太田市の冠稲荷社だろうか。

当社の元社である下野国富士村の稲荷社は、
大栗鎮座の関東五社稲荷神社とされているらしいが
大栗と富士は別の地なのではないかと思う。

また、佐野市の資料によると、関東五社稲荷神社の五社は
関東五社稲荷が勧請された時に、
同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の四社も勧請されたので
関東五社稲荷と称するようになったとある。
その説が正しければ、この狭い地域に
関東五社稲荷と大栗稲荷の二社が存在することになり違和感。

『栃木県神社誌』には、
天慶年壬寅月十日遷座ゆえに社と称するとある。

当地の詳細な郷土史などを参照しているわけではないので
正確なことは判らないが、富士村の稲荷社が田沼へ遷座された時に
大栗に関東五社稲荷神社が分祀されたということではないだろうか。
あくまでも雑感的私見だけど。

ちなみに『明治神社誌料』によると、一瓶塚稲荷神社は
『下野国志』には山城稲荷明神(伏見稲荷か?)からの勧請とあり、
また、藤原鎌足が創建した社を、武蔵、上野、下野に遷座したという伝説もあり
三ケ国惣社と称されたとも。

社殿の脇の境内社には、以下の名前が記されていた。
月読宮、淡島神社、天満宮、染殿神社、市廛神社、
太子神社、八坂神社、浅間神社、雷電神社。

『平成祭データ』には、末社として以下の名が載っている。
一部は境外にあるのかもしれないが、確認していない。
西宮神社、八幡宮、織姫神社、旅料飲三業稲荷、
八坂神社、神明宮、笹森稲荷神社、愛宕神社。

拝殿には宝珠紋や三つ巴紋の金飾りが付いていたが
『栃木県神社誌』には神紋は記されていないので、
特に神紋ということではないのかもしれない。


社頭

参道

参道

境内

拝殿

拝殿

拝殿内に金の狛狐

拝殿内に金の狛狐

本殿

本殿

西宮神社

境内社

本殿後方から

本殿後方の鳥居

本殿後方に小さな稲荷社

一瓶塚稲荷神社 御由緒
文治二年(一一八六年)佐野荘司讃岐守成俊公は、唐沢城再興の際に、富士村の稲荷大明神を今の地に遷し祀り、社領の地を寄進し、佐野荘百数十郷の総社として尊崇した。その折各地の人々は瓶に土をいれてこの地に運び塚を築いたので、塚を一瓶塚と呼び社を一瓶塚稲荷神社と称したと云う。
爾来武将庶民の信仰厚く、徳川五代将軍綱吉公は、館林尾曳城主の頃、毎月当社へ代参を遣わし崇敬特に深かったと伝えられ、延亨三年(一七四六年)には佐野荘の人々によって、見事な銅製鳥居(文部省認定重要美術品)が奉納されている。又寛政十二年(一八○○年)に、日本神祇総官領白川伯資延王より、「佐野総社一瓶塚正一位稲荷神社」の親筆の額を奉献された。
当社の境内は社殿の前面が非常に狭かったので、後方に土を盛り一瓶塚を延長して社殿を移し、境内を整備する事が、多年の宿願であった。昭和四十年境内模様替奉賛会を結成して、氏子信仰者の御奉賛により、社殿を始め一瓶塚、鳥居、社務所、神庫、その他一切の建物、工作物を移轉、改修或は新設して、境内の模様を一新し、昭和四十八年この歴史的大事業を達成した。

−『平成祭データ』−



【 一瓶塚稲荷神社 (田沼町)(印刷用ページ) 】

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