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鵜飼神社
うかいじんじゃ
栃木県鹿沼市藤江町東原  Zenrin Data Com Maps display !!

御祭神
鵜飼佐十郎命

栃木県鹿沼市にある。
日光線・鹿沼駅の南8Kmほどの藤江町に鎮座。
鹿沼カントリー倶楽部のコースの中にある。

『郷土を救った人々』に北コース18番の右側と記されているが
どこが北コースで、どこに18番ホールかがあるかわからない。

コースに入って勝手に探しまわって良いものかどうか考えていたら
コース管理事務所があったので、当社のことを聞いてみた。
確かにコース内にあるということで、近くまで案内していただいて参拝。

北コース18番ホールのレディスティーから右手に
社域の丘がみえる。
コースを横切って近づくと鳥居が立っており
少し登ると石祠を納めた覆屋がある。
覆屋の前には由緒を刻んだ石碑が立っている。

東日本大震災から一カ月以上経過したGW初日の夕方。
震災によるものか、石祠の屋根の部分が前方に落ちていた。

当社の創祀は明和五年(1768)頃。

明和の頃(1765〜)は藤江村は壬生領であった。
三浦肥後守の支配のもと、黒川沿岸の開墾を命じられたが
荒地開発は進まず、作付不能の地であった。
にもかかわらず年貢を徴収され、
さらに水害などの天災も加わり、離村者が急増している状態だった。

その後天領となったことから、明和二年(1765)八月、
鵜飼佐十郎は鹿沼十ヶ村の代官として赴任。
農民らの嘆願書を受け入れ、減免の措置を講じ、
黒川堤防工事を進めて村民を水害から守るなどの善政を行った。

藤江村の人々は鵜飼佐十郎に感謝し、生祠に祀った。
創建の祭典には鵜飼佐十郎本人も参列したという。

もとは南コース18番ホール付近にあったが
ゴルフ場造成により、昭和三十九年、現在地に遷座した。


レディースティーから社域

北ホール18番
レディースティー


社前

鳥居

社殿

石祠と由緒石碑

屋根部分が落ちてた

鵜飼神社由緒
ここに鎮座まします鵜飼神社の祭神は幕藩時代の代官鵜飼左十郎で里人の 崇敬は特に厚い神社である
この神社の由来を尋ねるにこの藤江町は幕政時代には都賀郡藤江村とよばれ 諸藩主と代官とにより交々支配され明治に及んでいる この間は領主の轉封が 繁くして領民との親しみは疎く領民は常に誅求呻吟していた 寛保年中に藤江村 惣百姓は三浦肥後守より黒川沿の川原の開発を命ぜられていたが その後年々の洪水と 猪や野兎の被害により荒地になるも年貢のみは徴収された その後代官の更迭の たびに窮状を訴えたが拒まれ潰百姓や逃散するもの相つぎ窮乏の果てにはかつて百卒 戸を算して栄えた村落も六十一戸に減少する衰微に陥った たまたま明和二年鵜飼左十郎が 代官になると専心農民の救済に努力した 明和二年藤江村の惣百姓が連名にて 五十四町六反 無開発場三十五町四反五畝二十三歩 川原林十五町四反七畝二十六歩 田町歩 二町三反三畝四歩を検分の上免租されるよう嘆願に及んだ
鵜飼代官は自ら巡検の上苛酷な年貢を減免する要を幕府に具申して始めて減租なった ために惣百姓は蘇生しえたので報恩の念やむことなく存命中に代官を生神として 鎮座するようになった 代官はこれを伝聞し官を退くと遥々藤江村を訪ずれ己れの 社前にぬかずいたのである 藤江村人は鵜飼代官の盛徳を後世に伝えようと図り 明和五年より陰暦八月二十日を祭日と定め祭祀を永く怠ることなくして讃仰せしめた さきに名主年寄組頭の村役人が祭礼のこと末代まで絶やさぬよう誓ったのを実現した もので藤江村良風美俗といえよう
今次鹿沼カントリー倶楽部を設立し藤江東原を中心として約五十万坪に及ぶ広大な ゴルフ場を建設した たまたまその中に鵜飼神社が鎮座ましますので藤江町民と協議し 両者合意の上でクラブは旧社地の隣接山林二段歩を提供し総費を負担して壮麗 森厳な社殿を造営し本年九月竣工し遷宮しまいらせたのである この社殿を中心として永遠に 祭祀が継続されるであろう 世に生神を祠るは稀であるこれは代官と領民との融合の 成果であって民政の極致である
かくして鵜飼代官の善政は永劫に不朽で共に藤江民衆の讃仰おく能わざるものと なって藤江町の良俗の根源を育むものである

−境内由緒石碑−



【 鵜飼神社 (鹿沼市)(印刷用ページ) 】

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