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大伴神社
おおともじんじゃ
長野県佐久市望月字御桐谷227  Zenrin Data Com Maps display !!
逢坂の関の清水に影見えて、いまや曳くらむもちづきの駒

七曜

式内社 信濃國佐久郡 大伴神社
旧村社

御祭神
天忍日命(大伴氏祖神) 天道根命 月読命

合祀 御嶽社 素盞嗚尊 大己貴命 少名彦命
他 明治合祀十数柱

中山道、「望月の宿」にある。
望月城の南、歴史資料館のそば。
役場などの並ぶ通りに入口があり、階段上が境内。

社伝によると、景行天皇四十年の鎮座。
式内社・大伴神社に比定されている古社で、
大伴宮、樋口宮とも称された神社。
もとは現在地の北数百mの「椀ノ木」に鎮座していたと云い、
現在、古宮などの地名が残っている。

大宝年間、諸国に牧場が設置されたが、
当地は、高原台地にあり牧草地に適した場所。

祭神・天忍日命は大伴氏の祖神で、大伴武日命とも呼ばれている。
祭神が馬に乗ってこの地へ来られ、鎮座。
乗って来た馬を種馬として駒の改良繁殖をはかリ、
この地は、多数の馬を産する地となって、
信濃国最大の望月牧へと発展したという。

よって当社は、小社ではあるが御牧七郷の総社と称えられていたという。

逢坂の関の清水に影見えて、いまや曳くらむもちづきの駒
紀貫之

寛政の時代、佐久市にある新海神社は、佐久郡内一の大社であり、
佐久郡内の各神社の神官は、新海神社の神事へ奉仕することになっていたが、
当社大伴神社長倉神社英多神社の三社は式内社であることを理由に、拒否。
それに対し、新海神社は寺社奉行へ訴訟を起こすという事件があった。

前回、晩秋の頃に参拝した時、宮司と家族の方が社殿の清掃をしておられた。
兼務ということで、朱印等は持参していないらしく、御朱印はなし。

今回、初夏の緑の季節に再度の参拝。
青々とした木々が美しく、すべての写真を入れ替えてみた。

神紋は「七曜」だが、社殿の瓦には、「雲に月」が附属していた。
社殿左側には、多くの道祖神・石祠が置かれていた。


社頭

鳥居扁額、御嶽宮・大伴宮

参道階段

境内

拝殿

本殿覆屋

境内の道祖神・石祠

拝殿

石祠に藁の馬

拝殿右手の三峯社

当社の特殊神事に「榊祭」という火祭がある。
望月の南東部にある松明山(800m)の頂上に小屋を造り火を放つ。
そこから百数十人の若者が持参の松明に点火して、
2Kmの山道を走り下り、鹿曲川にかかる望月橋から松明を投げ入れるという。

松明山の麓にある望月橋のそば、鹿曲川に面した絶壁を穿って弁財天が祀られている。
室町末期の永正年中に、近江国竹生島から勧請したもの。

また、橋の袂には西宮神社や去来の句碑が立っている。
西宮神社の横の階段を上ると豊川稲荷が祀られており、
そのそばに、大伴神社の境内社・榊神社があるが、
榊祭のための山宮らしい。


松明山だと思う

望月橋

西宮神社

絶壁を穿った弁財天。ちょっと色補正してみた。

西宮神社の上に豊川稲荷

榊神社

 社伝によれば、景行天皇四○年の鎮座と言い伝 えられている。大宝年間(七○一〜四)諸国に牧場(官牧) が設定され、千曲川・鹿曲川に境した七○○メートル乃至 八○○メートルの高原台地に牧草に適した草が繁茂し、そ の広さ三、○○○余町歩、これが朝廷直轄の牧場となり、 所謂望月牧である。これを維持、管理する牧監が即ち早く この地に土着して一大豪族となった大伴氏を祖とする望月 氏が朝庭より任命され、長倉牧・塩野牧の長官をも望月氏 が兼任した。

 仁嘉元年(八五一)正六位上(文徳実録)、 延長五年(九二七)従五位上(三代実録)に叙す。また、「天 慶二年(九三九)平将門の叛乱討伐のため望月国忠出征する に当り大伴社前に願文を捧げ奉幣した」と伝えられる。長 享二年(一四八八)村上顕国佐久郡に乱入、当社、炎禍、望 月対馬守盛世、再建。戦国末期天正十七年(一五八九)社領 三〆二七○文。江戸期、除地、四石一斗五升七合。

−『式内社調査報告』−



【 大伴神社(印刷用ページ) 】

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