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船路八幡宮
ふなじはちまんぐう
山口県山口市徳地船路2617
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山口市徳地船路にある。489号線の1本西にある道路脇。
489号線と、その道路の間を佐波川が流れている。
神社から東へ長い参道が、その道路や佐波川を越えて続いている。
かなり長いようだが、端まで行っていないので、長さは不明。
広い境内で、一段高い場所に社殿がある。
拝殿右には末社の熊野社。
後方の本殿は、流造なのだが、瓦葺にするため、
上げ底状態になっていて、違和感がある。
草葺・銅葺だと、お金がかかるので、
神社維持の為には仕方がないのかもしれないが。
江戸時代から、同じく山口市徳地にある三坂神社と、
式内御坂神社として論争があった。
三坂神社では文書等の記録がなく、敗訴状態であったが、
藩主の崇敬があり、盛んであった。
明治になり、明治4年、県の決定により、その三坂神社が式内社に決定。
当社は、改称を命ぜられ、八幡宮と称するようになった。
寛元二年(1244)に勧請された、祭神の應神天皇を、
以降は、主祭神にするように命じられた。
どちらが真の式内社であるか、僕には判断できないが、
「祭神を変えろ」というのは、納得できないものがある。
その後も、当社では、道反大神を主に祭祀を継続しているという。
社殿後方の森(山)には木々が茂っていたが、
境内には木々が疎らだった。整備をした後の様な印象。
とにかく、冬の陽光に眩しい境内だった。
一直線に延びた参道が印象的だったので、タイトル画は、参道にした。
本殿屋根の、「上げ底」も、ある意味印象的だが。
社頭 |
境内 | 拝殿扁額 |
本殿 | 熊野神社 |
境内から参道 |
本社舊号御坂神社と称し祭神は道反大神なり。延喜式内(人皇六十代醍醐天皇の御世延喜年間に撰び玉ひし九四五年延喜式と申す書籍に登載の社)
周防十社の一にして古来朝廷并に旧藩主の崇敬浅からざりし神社なり。社傳に人皇十二代の帝
景行天皇周防娑磨(今の周防佐波郡)に行幸の時三綱柏に御饌を包み川蜷を供して祭祀し玉ふと
申傳ふ。今尚ほ社紋に三綱柏を存し例祭に川蜷を献供するは其の縁なり。 應神天皇は寛元二年(西紀一二四四年)藤原貞光(社司上野家祖先)の勧請せる所にして羽明玉命勧請の由来は詳ならず。 社殿往古は字上野にありしが永保三年(西紀一〇八三年)回禄の災に罹り字下庄上野ヶ原(今の宮河内神の御屋敷)に再建す。然るに 應仁元年(西紀一四六七年)又洪水の變あり、更に現在の地に奉遷すと云ふ。斯く古き歴史を有する當社も明治四年 藩廰の命により八幡宮と改称、應神天皇を本殿とすべき様達せられ以て今日に至る。 −由緒書き− |
【 船路八幡宮(印刷用ページ) 】