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與能神社
よのじんじゃ
京都府亀岡市曽我部町寺蛇谷1  Zenrin Data Com Maps display !!


左巴

式内社 丹波國桑田郡 與能神社
旧郷社

御祭神
事代主命 健御名方命 天照皇大神 天兒屋根命

京都府亀岡市にある。
亀岡駅の南西5.5Kmほどの曽我部町寺に鎮座。
423号線を南西に4Kmほど進み、
407号線に入って南下すると、当社境内に到着する。
当地は摂津と丹波を結ぶ交通の要衝。
周囲には後期古墳が多く分布しており、
律令時代の與能廃寺などがあり、古くから開かれた土地。

境内入口は西向き。
「郷社與能神社」と刻まれた社号標が立っており
10段ほどの階段の上に鳥居が立っている。

鳥居をくぐると砂利の境内。
左手に社務所があり、右手に手水舎。
中央奥に拝殿がある。

拝殿の後方に10段ほどの階段があり、
参道中央に古びた灯籠。
灯籠の左右に屋根の付いた建物があり、
ベンチが置いてあるのだが何だろうか。
その灯籠の奥に立派な彫刻を施された、千鳥破風向拝付の流造本殿。

境内に応永二十一年(1414)の銘のある古い石灯籠があり
県の文化財になっているらしいが、どの石灯籠か確認し忘れた。
本殿前、参道中央の灯籠だろうか。
『全国神社名鑑』に載っている写真には、この灯籠が無い。

社伝によると崇神天皇の御宇の創祀。
丹波道主命が祀った桑田郡三座の一つ。
三宅神社、山国神社、與能神社)

また、嵯峨天皇の御宇、丹波国に神宮寺が三カ所に建立され
與能神宮寺伽藍がその一つであるという。
社頭案内によると、空海が嵯峨天皇の命により神宮寺を開き
奥院露堂で護摩修行を行ったとある。
この奥ノ院露堂は、当社の東(本殿後方)の山中にあり
露大明神を祀り、俗に大杉さんと呼ばれているらしいが
残念ながら、行っていない。

後嵯峨天皇の御宇には、村山・與能等の八庄が
神領として寄進されたという大社で、
式内社・與能神社に比定されている古社。

当時の神宮寺は、現在の御旅所の場所だったらしい。
御旅所は、当社から北東に300mほどの場所だが、
こちらも、残念ながら、行っていない。

祭神は、現在、事代主命健御名方命天照皇大神天児屋根命の四神だが
『特選神名牒』には、事代主命のみ、
『神名帳考證』(度会延経)には大屋津姫命
『諸国神社神秘抄』には、事代主命・健御名方命となっている。

明治六年六月郷社に列した。

本殿の左手に祇園社が祀られ、
右手には、春日神社と住吉神社の小さな祠がある。

拝殿から境内右手に行くと、「乾天満宮」と扁額のある石鳥居があり、
奥に天満宮が祀られている。
他には稲荷社や、芸能の神として崇敬されているという百太夫社がある。

拝殿屋根に巴紋があり、本殿屋根に菊紋が見られたが
『全国神社名鑑』には、左巴紋が神紋と記されている。


社頭

境内入口境内

鳥居から境内

境内社殿

本殿

本殿左に祇園社

本殿

春日社と住吉社

稲荷社

天満宮

百太夫社

与能神社(延喜式内社) 曽我部町寺
祭神として事代主命(えびすさん)建御名刀命(諏訪さん) 天照皇大神(お伊勢さん)天児屋根命(春日さん)の四神を祀る。
「諸国鎮座神秘抄」によると奈良時代に四道将軍丹波道 主命を国家の平和鎮護の為祀った与能神宮寺が起源 とされ、現御旅所を中心に、曼荼羅堂、講堂等寺区全域に 伽藍を誇り、皇室の崇敬篤く口丹波南部の中心として 隆盛をきわめたが鎌倉時代以後兵火にあい焼失した(礎石、古 瓦が現存)また「谿端與能宮旧記」によると、空海が嵯峨 天皇の命により神宮寺を開き奥院露堂で 護摩修行を行い、後嵯峨天皇の代に村山、与能 など八庄を神領として寄進を受けたとされる。
立派な彫刻のある本殿は三間社流造で、現存する慶長 八年(一六〇三)の棟札によると社殿が文応元年(一二六〇)に建立され、 慶長元年(一五九六)に地震により倒壊し、同八年に再建され たことがわかる。現在の本殿は正徳四年(一七一四)に改修され たものと考えられる。境内には応永二十一年(一四一四)の銘のある 石灯籠があり、境内の百太夫社は芸能の神と してその方面の崇敬をあつめている。

−社頭案内板[原文ママ]−



【 與能神社 与能神社 (亀岡市)(印刷用ページ) 】

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