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梨木神社
なしのきじんじゃ
京都府京都市上京区染殿町680  Zenrin Data Com Maps display !!


三条花菱

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旧別格官幣社

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御祭神
三條實萬公 三條實美公

京都市上京区にある。
京都御苑の東隣。清和院御門の横に境内入口がある。
境内は南北に長い形。
参道を歩くと、神門があり、神門奥に拝殿(舞殿)。
その後方、垣の中に流造りの本殿がある。

神門の外に、手水があり、多くの方が水を汲んでいた。
境内案内には、京都三名水「染井の水」とあるのがこれだろうか。

通称、萩の宮。境内には多くの萩が繁殖しており、
秋に参拝すると、さぞ綺麗なんだろう。

創祀は明治18年。

祭神・三條実萬公は光格・仁孝・孝明三天皇に仕えた幕末の公卿。
安政四年、内大臣に昇り、日米修好通商条約調印問題の勅許拒絶や
将軍職に一橋慶喜擁立をはかり、安政の大獄で退隠。

三條実萬公の子、三條実美公は、幕末の立役者とされる「七郷落」の一人。
「七郷落」とは長州に逃れたことによる呼び名。
尊皇攘夷運動に加担したが、文久三年に失脚し長州へ逃れ、
維新後は、明治四年太政大臣、明治十八年内大臣、
内閣総理大臣も兼任したこともある人物。
大正天皇即位の際に合祀された。

神紋は、三條花菱。
賽銭箱に付いていた紋をサンプリングした。


鳥居

参道の鳥居

神門

拝殿

中門

本殿

萩の宮 梨木神社
ご祭神
贈右大臣正一位三條実萬公
内大臣正一位大勲位公爵三條実美公
ご由緒
 実萬公は、当時「今天神」と人々から尊称され、才識兼備のお方であ った。光格・仁孝・孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し、王政復古の 大義を唱えて、明治維新の原動力ともなられ、 安政の大獄の折、幕府 より圧迫を受けて一乗寺村に幽居の後、五十八歳で薨去された。
 明治二年その功績を愛で、天皇より”忠成公”の諡を賜わり、同十八 年十月旧邸の地名にちなみ、梨木神社として創祀せられるに至った。
 実美公は、父実萬公の遺志を継ぎ、朝威回復・攘夷決行の急進派少壮 公卿の中心人物として活躍。しかし文久三年八月十八日の政変で頓坐し、 同志の公卿と共に長州西国に赴かれ、艱難辛苦を経て維新の大業を達成 せられた。そして明治新政府では、右大臣・太政大臣・内大臣等を歴任 された明治の元勲である。
 公は明治二年東京の遷都の際、御所廃止の論が起こるも、これを極力 反対された。今日なお栄えて在る京都の大恩人である。のち大正四年、 大正天皇即位ご大典の折合祀せられた。
祭日
四月十八日春季例大祭
九月第三日曜日萩まつり
十月十日秋季例大祭
史蹟
染井の水
 京都三名水(醒ヶ井 県井 染井)の内、現存する唯一の名水。昔この 地は「染殿」とも称され、宮中御用の染所としてこの井戸が用いられた。
<<萩の名所>>
 境内一円数百株の萩が繁殖。九月中可憐な花が咲き乱れ、参詣者の詩情を誘う。

−境内案内板−



当神社は、贈右大臣正一位三條実萬公と内大臣正一位大勳位公爵三絛実美公の二柱をお祀りしている神社である。
実萬公は、才識兼備菅原道眞公のお生まれかわりと崇められ、当時の人々から今天神様と称せられたと言われ、早くから王政復古の大義を唱えられ、明治維新の原動力となられた方である。明治二年、天皇から忠成公の謚を賜り、明治十八年十月、今の地に梨木神社を創建され、別格官弊社に列せられたもので、あまたある明治維新の元勳、元老、志士の中で唯一人公をお祀りしたのである。
実美公は、父実萬公の遺志を継がれ、あらゆる困難に堪え、危難に遭遇されながら、明治維新の大業を達成されたのである。明治二年、都が東京に移されるについて京都御所が廃止されようとしたとき、実美公は「それでは市民が可愛いそうです。それによって京都はさびれます」と明治天皇に進言され、それによって、京都御所廃止案は中止となったばかりか却って「国家の大礼は京都御所に於て行う」と定められ、そのため、大正、昭和の即位は京都御所で行われ、その都度京都は発展したといわれ、いわば公は、京都の恩人でもある。大正四年、大正天皇の即位式にあたり、第二座御祭神として梨木神社に合祀されたこのように父子揃って同じ道を歩み、志を同じくし、御祭神として同一の別官弊社に合祀されるということは実に稀有の例と申さねばならない。

−『平成祭データ』(原文ママ)−



【 梨木神社(印刷用ページ) 】

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