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吉野神宮
よしのじんぐう
奈良県吉野郡吉野町吉野山3226
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奈良県吉野にある。
吉野山の北西麓付近に鎮座。
近鉄吉野神宮駅の近くに参道入口の鳥居が建ち、
1Kmほど登ると境内の入口。
入口の鳥居をくぐって広い参道をしばらく歩くと広い境内。
境内は北西向き。朝日を背にしており、
朝の参拝では鳥居も社殿もシルエットになる。
神門をくぐると正面に外拝殿。
外拝殿から、さらに拝殿を拝む形になっており、
拝殿の後方に流造りの本殿が建つ。
明治22年、明治天皇の申し出により創立。
明治25年、社殿完成によって鎮座した神社。
祭神は、建武中興の中心人物である後醍醐天皇。
もともとは、後村上天皇の勅命により
後醍醐天皇の御尊像を吉水院に奉安し、
僧侶によって、550年間、代々供養が続けられていたが、
明治になり、吉水院は後醍醐天皇社と改称し、
その後、吉水神社と改称した。
が、太政官より、神仏分離の目的で、
別に社地を定め、後醍醐天皇を祭るように指示が出され、
現在地に創祀されたもの。
創立時は、官幣中社であったが、
明治34年、官幣大社に昇格した。
後醍醐天皇は、正応2年(1289)、
後宇多天皇の第二皇子として生まれ、
文保2年(1318)、31歳で即位した。
当時は、鎌倉幕府の北条一族が皇位継承にも干渉するなど、
朝廷の権威が著しく衰微する時代であった。
そこで、平安時代の醍醐天皇・村上天皇の
「延喜・天暦の御代」へ立ち返るべく、
後醍醐を名乗り、倒幕を計画。
ついに元弘3年(1333)、鎌倉幕府を倒し、
建武の中興を成し遂げた。
しかし、足利尊氏の謀反により、わずか2年で、中興政治は瓦解し、
その後、後醍醐天皇は吉野山の行宮で崩御された。
境内の左手には斎館があり、本殿を横から見ることができる。
境内右手には三つの摂社が並ぶ。
建武中興の功臣だが、官幣社に祭られなかった方々を祭る神社。
神門は、「抱葉菊」という紋。
なかなか美しいけど、描くのが面倒だった。
また、丹羽基二の『神紋』には「桜花」も神紋として使用されているとある。
一之鳥居? | 境内入口 |
境内 |
境内 | 神門 |
外拝殿 |
拝殿 | 本殿 |
摂社 |
瀧櫻神社 | 船岡神社 | 御影神社 |
吉野神宮 御由緒 吉野神宮のご祭神は、建武中興の御偉業をなし遂げられた後醍醐天皇です。今を遡る650年昔、理想に燃え、邁進せられた第96代後醍醐天皇はまさに激動の時代を生き抜かれた行動派天皇と申せましょう。そのご活躍ぶりは「太平記」に詳しいところですが、その御志は、江戸幕末の尊皇攘夷運動にも大きな影響を与え、明治維新として結実したといわれています。一方、後醍醐天皇はご幼少の頃より学問の研鑽に御心を注がれ、また、歌道についても格別ご堪能で、文化面に深くご修養をつまれました。さらに、神道をはじめ、真言、天台、禅等の奥義も極められました。従って、吉野神宮への参詣は、後醍醐天皇の御偉徳を偲び、ご祭神の広大無辺な御神徳に触れることになると申せましょう。 吉野神宮は、明治22年に創立され、同25年の御鎮座祭には明治天皇の勅使が参向されました。また後村上天皇の勅命で刻まれ吉水神社(吉水院)に祀られていた後醍醐天皇の御尊像が、550年を経て吉野神宮の本殿に遷座奉鎮せられました。現在の社殿はその後の御造営で、昭和7年に竣工しました。2万7千坪の森厳な境内に、流れ造りの本殿、入母屋造りの拝殿などが美しく調和し、「玉骨はたとひ南山の苔に埋まるとも、魂塊は常に北闕の天を望まんと思ふ」と都に思いを寄せられた後醍醐天皇の御心を偲び、京都に向かって、北向きに建てられているのが印象的です。また、拝殿右に並ぶ摂社には建武中興に功績のあった日野資朝卿、日野俊基卿らの忠臣をお祀りしています。
−『平成祭データ』−
−境内案内板− |