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天一神社
てんいちじんじゃ
兵庫県佐用郡佐用町東徳久1644  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 播磨國佐用郡 天一神玉神社
旧無格社

御祭神
天之御中主大神 配祀 天目一箇神

兵庫県佐用町にある。
播磨徳久駅の北東4Kmほどの東徳久に鎮座。
千種川にそって53号線を進み、川の東側へ。

言葉で説明しにくい場所なのだが、
遠くから、丘の上に、わずかに鳥居が見えるので、
丘の麓に車を停めて、山道を登る。
少し登ると、丘の上部が猪除けのフェンスに囲まれており、
針金で封鎖されていたので、針金を解いて登ると
扁額に「天一神社」と記された鳥居が立っていた。

鳥居をくぐり、少し登ると祠があり、
祠の前に、天神降臨之岩と呼ばれる馬蹄石がある。
当社祭神が馬に乗ってここに降臨したと伝えられる岩。
はじめ、この祠が天一神社本体だと勘違いし、
この祠に参拝して下山したのだが、
車の中で、『式内社調査報告』を読み直してみると、
天神降臨之岩は、参道途中にあると記されていた。

ということで、改めて参拝。再度、山道を登り
天神降臨之岩の祠からさらに山道を登ると、当社境内があった。
なお、天神降臨之岩の祠には書道の神が祀られているらしい。

境内中央に、入母屋造の社殿があり、
拝殿の後方、覆屋の中に本殿が鎮座。
車で、資料を読み直さなければ、大きく後悔するところだった。

創祀年代は不詳。

文徳実録に、
「丁亥在播磨国従五位下天一神預官社」
と記されている古社。

式内社・天一神玉神社に比定されている神社だが、
天一神玉神社は、天一神王神社とも記されハッキリしていないようだ。
一般には、天一神玉神社ではなく、天一神社とされ、
現在の社号も、天一神社となっている。

祭神は、天御中主大神
ただし、この祭神は、天一神社の社号から付会されたものと考え、
祭神を天目一箇神とする説も有り、
現在は、両神を祭神としている。
また、宝剣と思われる銅剣が発掘されたことから
剣の神霊を祀るとも考えられている。

参拝を終え、山道を下り、
猪除けのフェンスの針金を元にもどして参拝終了。

参拝は、正月四日。
社殿の案内に、「毎年正月朔日より七日間祭典を行い
この間に参詣すれば「天一神玉」の霊験により疫病に罹る事なし」
と記されていたが、祭典を行っている様子は見られなかった。
でも、正月七日間の参拝なので、
たぶん、僕は疫病に罹ることはないでしょう。
でも旧暦の正月とかもしれないので、あてにならないかもしれない。
ただし、『平成祭データ』には例祭は新暦一月二日とある。


社域の山

猪除けに囲まれている

山道の上に鳥居

鳥居

少し登る

参道途中に書道の神を祀る祠と天神降臨之岩

さらに登る

社殿

本殿の覆屋

本殿

天一神社由緒 東徳久字西間村鎮座
祭神 天御中主大神
この神社は今より約二千年前(彌生時代)に創立された日本でも 最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に 「安置御宅」記され延喜式神名帳をはじめ多くの古書に登載され 有名である。尚奈良東大寺戒壇神名帳に「天一天白中頭天王」 と天一神のことが登載されている。

・延喜式神名帳に曰く
「播磨国佐用郡二座佐用比賣神社、天一神玉神社」
・播磨鑑に曰く
「天一神社は柏原郷東徳久中馬村と云う所の上山
 祭神天御中主大神」
・神祇全書に曰く
「天一神玉神社今東新宿村有称阿布良権現社叱乎」
・文徳実録に曰く
「天安元年八月庚辰(紀元一五一七年)在播磨国正六位
 上天一神授従五位下、丁亥在播磨国従五位下天一神預官社」
・和名抄の百鬼経に曰く
「天一神和名奈加加美天女化身也」
その他の古書「姓氏録云」「神社覈録」「比保古云」「地名彙」 「神祇志料」「播磨風土記」「播磨国細見記」「式社記」等に 登載されている。

古例舊慣
往古より毎年正月朔日より七日間祭典を行いこの間に参詣すれば 「天一神玉」の霊験により疫病に罹る事なしとの伝により参詣者は 近郷のみならず他郷他郡の遠きより群参せり。
尚、近年は交通安全、入試合格、諸技術上達等の祈願により 目的成就、喜びの人々急増せり

−社殿案内板より(中頭天王は牛頭天王ではないかと思う)−


創立年代不詳なれど延喜式神名帳に佐用郡二社佐用比売神社・天一神社とあり 延喜年代の宮席あり、正しくは天一神社と云う。
鍛冶の神、職業神、銅剣(県指定重要文化財)は明治二十年頃平松の 「ゴロウ」と呼ばれる所から発掘され、弥生時代に大陸から渡って来た もので圃場整備の時に数々の土器が発見された。

−『平成祭データ』−



【 天一神社 (佐用町)(印刷用ページ) 】

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