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韓竈神社
からかまじんじゃ
島根県出雲市唐川町408  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 出雲國出雲郡 韓竈神社
旧村社

御祭神
素盞嗚尊

当社は、高所恐怖症及び、極度の肥満体型は参拝不可能だと思う。

出雲市(旧平田市)の日本海側、河下町から鰐淵寺方面へ向う。
途中、鰐淵寺と唐川の分岐点を右、唐川方面へ。
さらに走ると、韓竈神社への分岐点があるので、右。
要するに道なりに右へ右へと進む。
さらに進むと、川沿いに、軽自動車でも離合不可能な狭い道へ続き、
やがて舗装も途絶え、荒れた路面となる。
暫く走ると、右手に木製の鳥居と案内板。

鳥居の先は、昼尚暗く、鬱蒼とした、傾斜の急な自然石の階段が続く。
階段を登りつめた左手に、わかりにくい上り口。
この辺りから、ロープや手摺がなく、一歩踏み出せば、転げ落ちる。
のぼった場所に手水鉢らしきものがあるが、その先に道がない。

周囲を見回すと、右手に数十センチの岩の裂け目。
裂け目の向うに、石組みが見える。
斜めになった裂け目に身体を押し込み、注意しながら進む。
抜けた先、石組みの上に社殿があるが、石組み周囲にも手摺はなく、
石組みの上も、狭い。

社殿に向って立つと、背後はすぐ崖。拝するのもドキドキ。
下の立岩の写真の右端に社殿の屋根。下には石組みが見える。
この幅しかないのだ。

社伝によると、文化十二年三月十日の創祀。
式内社・韓竈神社に比定されている古社で、
出雲国風土記に「韓銍社」とある神社。

同じく式内社の斐代神社は、当社の境外末社。

鰐淵寺開山智春上人が信濃の国から来られた時、
老翁三人が出迎え、その後、三所へ飛び去った。
その一人が当社の智那尾権現であり、乗って来た岩舟が
社殿を覆っているという。

明治五年村社に列した。

『神国島根』によると、神紋は三つ柏らしい。
蔓の有無や、葉の形状が分からないので、掲載できない。


暗くて急な階段

参道

参道

立岩の間を通って社殿へ

社殿前の立岩

社殿

社殿

扁額

川側にある岩舟。祭神・素盞嗚尊が乗ったという伝承がある

韓竈神社
鎮座地 平田市唐川町字後野四〇八番地
主祭神 素蓋嗚命
由 緒 出雲国風土記(七三三年)には韓銍社  延喜式神名帳(九二七年)には韓竈神社 と記され ており 創立は不詳であるが 非常に古い由緒を持 つ神社である。
 社名の カラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意 味するとされている。即ち これは 祭神の素蓋嗚 命が 御子神と共に 新羅に渡られ 我が国に「植 林法」を伝えられると共に「鉄器文化」を開拓され たと伝えられていることと、関係があろう。又当社 より奥部の北山山系が 古くから産銅地帯といわれ 金掘り地区の地名や 自然銅、野タタラ跡、などが 見られることと、鉄器文化の開拓と深い関係がある といわれている。
「雲陽誌」(一七一七年)によると、当社は 素蓋 嗚命を祀るとして 古老伝に「素蓋嗚命が乗り給い し船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを 「岩船」という。この岩は 本社の上へ西方より屋 根の如くさしかざしたる故に 雨露も当たらず世俗 に「屋方石」という。又 岩船のつづきに周二丈余 り 高さ六間ほどの丸き立岩あり これを「帆柱石」 という。社への入口は 横一尺五寸ばかり 高さ八 尺ほどの岩穴となっており 奥の方まで二間ばかり あり これが社までの通路となっている」と記され ている。
例大祭 十一月三日

−案内板より−



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