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小石神社
こいしじんじゃ
群馬県前橋市敷島町255−1  Zenrin Data Com Maps display !!


祇園守


三つ巴


御祭神
素戔鳴尊
配祀
大物主命 菊理姫命 大己貴命 菅原道眞
伊邪那岐命 伊邪那美命 木花佐久夜比賣命

群馬県前橋市にある。
両毛線・前橋駅の北西6Kmほどの敷島町に鎮座。
敷島公園の近くの住宅地の中に垣に囲まれた境内がある。

境内入口は南向き。
神明鳥居の扁額に「小石神社」とあり、
右脇の社号標には「宗教法人小石神社」と刻まれている。
鳥居をくぐると砂利の境内。
昭和四十六年七月に現在地に遷座されたらしく
まだまだ新しく、綺麗に整備された街中の神社という印象。

参拝は十一月の早朝、日の出の頃。
境内に朝日が射し込んで、清々しい境内。
境内に入って左手に社務所があり、御守りなども売ってるようだが
参拝した時には閉まっていた。

境内の参道を進むと、コンクリートの社殿。
拝殿・本殿ともに神明造だ。
社殿の前に、祭神・素盞鳴尊が出雲で詠んだ
「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作るその八重垣を」の石碑。
境内右手には1mほどの立石が祀られていた。

社殿の右手には、青色や黄色に塗られた祈願石の小石が積まれ
健康祈願の願い事が書かれていた。
その小石の奥に赤い石が置かれていたが、
これが、当社の社号の元となった小石だろうか。

創祀年代は不詳。
上野国神名帳に「正五位上 小石明神」とある古社。

社伝によると、日本武尊東征のみぎり、
南橘村(現南橘町あたりか)の橘山の山頂に
一つの石を置いて素盞鳴尊を祀り戦勝を祈願したという。

その霊石が疫病平癒の神徳があり、
疫病の流行った村々を転々としていたが
江戸時代後期、横山町(現千代田町)の路傍にあったのを
実相寺(千代田町の寺院だろうか)内の八坂神社に祀り天王石と称した。

江戸時代に八坂神社に祀られるまでは、
村々を転々としていた霊石だったという
社伝が正しければ、上野国神名帳に記載された小石明神なのか疑問が出てくる。

ひょっとすると南橘村の何処かに小石明神があり、
御神体の霊石を村々に請われて貸し出していたが
小石明神そのものが衰退してしまったのかもしれない。

明治三十一年、鷲宮神社より分霊勧請して酉の市が行われ
「お酉様」と呼ばれるようになった。
明治四十年、琴平宮と白山神社を合祀して小石神社と改称。
昭和四十六年、現在地に遷座された。

賽銭箱に三つ巴紋が付けられており、
手水鉢や社殿の柱に祇園守紋。
もと八坂神社なので祇園守が当社の神紋なのだと思うが
確認していないので両方を掲載しておく。


境内

八雲立つの石碑



境内社殿

本殿

拝殿

拝殿扁額

拝殿柱の祇園守

社殿横の祈願石、この小さな赤石が霊石か?

小石神社の由緒
御祭神 素戔鳴尊
古き昔より上野國勢多郡南橘村の橘山に疫病除 のご神徳があるという赤いご霊石があった。
このご霊石は悪病が流行した部落を転々として いたが江戸時代の後期に前橋市横山町(現千代田町 四丁目)の路傍で風雨に曝されていたのを 地元の篤信家達によって神社に祀られることと なった。当初は八坂神社といい、その後明治 四十年に市内にあった琴平宮と白山神社を合併 して小石神社と改称した。また横山町が前橋の 商業の中心地であったことから、毎年師走には 酉の市が開かれ市内をはじめ県内外の数多くの 崇敬者たちが訪れ、神社の境内には縁起物や 老若男女の喜ぶ露店が立ち並び『お酉様』と親しまれ 大変な賑わいをみせた。昭和四十六年に 縁深きこの地に遷宮され、この間敷島、緑が丘 両町内の歴史とともに歩み地元の鎮守様として 現在に至っている。

−由緒石碑−



上野神名帳に正五位小石大明神とあるのは当神社と伝えられる。
もと南橘村橘山にありて日本武尊が東征のみぎり山頂に一つの石を置きて須佐能命を祀り戦勝を祈願したとある。
その霊石が疫病除の神徳あるの故をもって古来悪病疫流行の部落へ転々として移動し、江戸初期前橋市横山町の路傍に移されしを永井信孝氏が実相寺内八坂神社に祀り天王石と称して御神体となせり。
明治三十一年佐野鷲宮神社より分霊勧請し酉の市が行なわれ、以来前橋年の瀬の風物詩の一つとして有名であったが現在は千代田町熊野神社と共催で同神社で行なわれている。
昭和四十六年七月、時代の要請によりこの地に遷宮鎮座された。

−『平成祭データ』−



【 小石神社 (前橋市)(印刷用ページ) 】

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