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田代神社
たしろじんじゃ
岐阜県養老郡養老町高田259−1  Zenrin Data Com Maps display !!


左三巴

式外社 正六位上國津明神 美濃国神名帳
旧郷社

御祭神
別雷命
武甕槌命 經津主命 天兒屋根命 姫神
家津御子神 速玉男神 熊野久須美命
建御名方神 應神天皇 猿田毘古神
配祀 天照大神

岐阜県の養老町にある。
養老鉄道養老線・美濃高田駅の西700mほどの高田に鎮座。
境内入り口は東向き。

参拝は年末の休日。晴天の日の参拝。
鳥居の脇には迎春のための角松が飾られていた。

鳥居をくぐると正面に垣に囲まれた社殿。
拝殿は瓦葺入母屋造で、後方の赤い本殿は流造。

本殿の左右に摂社の稲荷神社と神明神社が祀られており
神明神社の、さらに右手には金刀比羅神社がある。

創祀年代は不詳。

美濃国神名帳に、従六位國津明神とある古社で
本来は「国津」という名前だったようだ。

社伝によると、
六条天皇の頃(1165〜1168)、
清和源氏の後胤多田頼成が島田村に移住し、
御田代(神田)の備わる当社を深く崇敬して「田代冠者頼成」と名乗ったため、
「田代神社」と称するになったという。

もとは字古宮に鎮座していたが、慶長六年年十二月二十六日
神明神社の鎮座地であった現在地に遷座。
よって神明神社を地主神として摂社に祀っている。

当社は、加茂神社・春日神社・熊野神社・諏訪神社・八幡神社・白髭神社の
六社を合祀した神社のようで、祭神も多い。

また、安永年間(1772〜1780)、
伊勢の御師・世古淨太夫が伊雑宮(天照大神)を相殿に祀り、
御鍬神社と称したという。

別当天台宗寿量院の僧が、社傍に居住して歴代祭祀していたが、
明治維新とともに廃寺となり、寿量院の建物は社務所となったらしい。

神紋は左三巴。


鳥居

鳥居扁額

境内

本殿左の稲荷神社

社殿

社殿

本殿

本殿右の神明神社

その右に金刀比羅神社

田代神社由緒
 田代神社は 加茂神社 春日神社 熊野神社  諏訪神社 八幡神社 白髭神社の六社を奉斎 創建 年月不詳なるも今を去る一千年以上の古社にして  美濃国神名帳所載の多藝郡十六社の中「國津明神」 が即ち当社の古名とも云う 六條天皇の頃 清和源 氏の後胤多田頼成が嶋田村に移住し 御田代(神田) の備わる当社を深く崇敬して「田代冠者頼成」と名乗り 世人当社を「田代神社」と称するに至ったと云う
 古宮の地はしばしば洪水の被害に悩まされたので 慶長六年十二月二十六日 神明神社古来鎮座の北浦 の地へ遷座 同年領主徳永石見守壽昌が社領を寄進 以後人家も続々移住して高田の町並の基礎を作った
 寛永十八年 承應二年 寛文十年の三度 本殿を 造替 祭礼奉納の大太鼓どじょう踊りは年々盛大に 執り行われた 安永年間伊勢の御師世古淨太夫が当 社の相殿に伊雑宮(天照大神)を奉斎 御鍬神社と 称して農民の崇敬厚く今日に至る 明治五年郷社に 列せられた 昭和六十一年 本殿 幣殿 拝殿その 他の社殿工作物を 慶長の御遷宮以来の大造営とし て竣工 同年八月二十八日に本殿遷座祭を 九月十 三日に御遷座三百八十五年記念大祭並びに 御造営 竣工奉祝祭を挙行した
 摂社神明神社は 天照大神を奉斎 創建年月 不詳なるも古来当地に鎮座 慶長六年以降は田代神 社の地主の神として重んぜられた 慶長元年 社僧 行透が社傍に大善院を創建 神明神社の宮寺とした 寺号はその後壽命院 壽量院と変遷したが 明治維 新の神仏分離令により廃寺となり 本尊の薬師如来 は即心寺へ遷座 昭和五十七年 社殿を造替して  遷宮式を執行した
 摂社稲荷神社は 倉稲魂神を奉斎 創建年月 不詳なるも往昔より田代神社裏に鎮座 天光様と称 して参詣者も多かったと云う 大正十二年 島田に 遷座 有志の人々により祭祀が営まれていたが  昭和五十七年 元社地に社殿を造営復帰 総氏子に よる遷宮式を執行した
 境内社金刀比羅神社は主神として大己貴命 を奉斎 文化年間 即心寺境内に創建明治初年稲荷 神社境内へ移転 大正十二年 稲荷神社と共に島田 に遷座 昭和五十七年 元社地に復帰後 神明神社 旧社殿に遷座された 平成三年 新社殿が竣工遷宮 式が執行される

−境内由緒石碑−



【 田代神社 (養老町)(印刷用ページ) 】

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