[HOME]  >  [神社記憶]  >  [関東地方]  >
メニューを表示する 表示用ページ


鵜ノ木八幡神社
うのきはちまんじんじゃ
東京都大田区南久が原2−24−1  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 武蔵國荏原郡 薭田神社
旧無格社

御祭神
誉田別命

東京都大田区にある。
東急多摩川線・鵜の木駅の東500mほどの南久が原に鎮座。
東急池上線・久が原からも南へ500mほどの位置。

境内入口は西向き。
境内入口の数段の階段を上ると石鳥居が立ち、
鳥居の右手に「鵜ノ木八幡神社」と刻まれた社号標がある。

鳥居をくぐると参道左手に手水舎があり、参道正面に美しい社殿。
昭和六十一年発行の『東京都神社名鑑』に載っている写真は
瓦葺平入の質素な社殿だが、現在は銅板葺入母屋造。
平成に建て替えられたものらしい。

拝殿の扁額には「八幡神社」とあり、
賽銭箱には八幡の代表紋である三つ巴紋。
拝殿の後方に幣殿・本殿が接続している様式で本殿は流造。
街中の神社に多いのだが、社殿の左手は駐車場になっている。

参拝は三月の曇天の朝。
日射しが無くて写真は全体的に暗めになってしまった。

鵜ノ森明神とも称された神社。

社伝によると、延徳元年(1489)、
天明伊賀守光信の子・天明五郎右衛門光虎が
下野国からこの地に移り住み、当社を勧請し、
以後、天明一族により崇敬維持されてきたという。
いわゆる私邸に祀られていた神社のようだ。
また、寛文の頃、青山因幡守が社殿を修復したと伝えられている。

ただし『式内社調査報告』には、
当社は式内社・薭田神社の論社の一つであるという。
『風土記稿』(新編武蔵風土記稿?)に、
「鸛(鵜)の木村名主五郎右衛門が宅地にある祠等
皆古の薭田神社なりといへり」とあるらしい。
であれば、延徳元年以前に存在した薭田神社に八幡神が勧請され、
その後八幡神のみが残ったということだろうか。

論社の多くは、薭田は蒲田の誤記だと解釈され
蒲田周辺の古社に式内社を求めた結果らしい。

境内左手隅に奨兵義会記念碑という石碑が立っている。
明治三十五年、当社境内西北隅に建てられたもので、
旧鵜ノ木村、旧鵜ノ木山谷から兵役の義務に服した子弟を顕彰する石碑。
第二次大戦の混乱期に境内に埋蔵されてしまったが、
平成十一年、当社建て替えの時に、五十有余年ぶりに発掘され復元したらしい。


社頭

鳥居

社号標

境内

拝殿

社殿横から

境内

拝殿扁額

奨兵義会記念碑


【 鵜ノ木八幡神社 (大田区)(印刷用ページ) 】

ボーダー




no index