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川田神社
かわたじんじゃ
滋賀県甲賀市水口町北内貴490  Zenrin Data Com Maps display !!


下がり藤

式内社 近江國甲賀郡 川田神社二座 並名神大 月次新嘗
旧県社

御祭神
天湯川桁命 天川田奈命
配祀 天児屋根命 大己貴命

滋賀県甲賀市にある。
草津線・貴生川駅の北1Kmほどの水口町北内貴に鎮座。
近江鉄道の線路の近く、貴生川駅と水口城南駅の中間あたりに
道路に面して北西向きに、境内入口の鳥居が建っている。

鳥居の脇には「川田神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり、砂利の参道を進むと鳥居が建っており
参道右手奥に稲荷社の小祠。参道右手に手水舎。
参道の鳥居をくぐり右に回ると砂利の境内。

境内左手奥(南東方向)に明治神宮遥拝所があり、
境内中央に舞殿のような拝殿。
拝殿の後方、垣に囲まれて社殿が鎮座。
中央に朱塗りの本殿。本殿扁額にも「川田神社」。

境内入口は北西向きで、社殿の向きは南東向きなので、
社殿の後方から参道を進み、Uターンする形で参拝することになる。

昔は、集落が境内の南東、社殿の前方にあり、参道も南東から続いていたが
江戸時代になって、集落が神社の後方に移転したので、
参道が後方(北西)になったらしい。

参拝は、年末の休日の早朝。
少し靄のかかった静寂の境内を、
ジャリジャリと砂利の音を立てながら歩いた。

社伝によると、
垂仁天皇の御代に創建されたという。

倭姫命天照大神を奉じて、甲可の日雲宮に止まった時、
甲可山直郷に景勝の地があり、鎮座せんと欲するとの神託があり
人を遣わして川田山に祀らせたのが当社の起源で、
川田二所明神と号したという。

昔は、矢田野という地に鎮座していたという説もあるらしいのだが、
川田山が矢田野ということだろうか。
矢田野とは、水口大橋の南の矢田野遺跡のあたりだろうか。

式内社・川田神社の論社の一つ。
式内社であれば、三代実録に
「貞観元年正月二十七日奉授近江国従五位下川田神従五位上」
と記されている神社ということになる。

現在の主祭神は、天湯川桁命と天川田奈命だが
近世には春日四座と考えられていたらしく、
あるいは天児屋根命大己貴命とする説もある。

土御門帝の長享初年(1487)に足利軍の兵火にて焼失。
延徳元年、内貴城主内貴伊賀守孝則によって再建されたが、
正親町帝の元亀、天正年間の兵乱で再度焼失。
以後、逐次修復され現在に至っている。

明治九年十月、村社に列し、
明治十七年十一月、郷社に昇格。
さらに昭和十一年六月、県社に指定された。

本殿の左右に境内社があるが詳細はわからない。

本殿左手に境内社の祠が二つ並び、
二つの内の右側の祠は複数の社を祀る形式。

本殿の右手には、やや大きめの境内社。

『滋賀県神社誌』には天満宮の名だけが記されており
『明治神社誌料』には、天満宮・五社神社・天照皇大神の名が載っているので
右手が天満宮、左手小祠が天照皇大神、複数祭祀の祠が五社神社かもしれないが
やはり未確認なのだ。
五社神社の祭神の一柱である矢田部蔵田麻呂が、川田神社の創祀者らしい。

参道の燈籠には三巴紋が刻まれていたが、
手水舎などの社殿には藤紋が付けられている。
『滋賀県神社誌』によると神紋は「下り藤」らしい。


社頭

鳥居と社号標

参道

鳥居と手水舎

参道右手に稲荷社

稲荷社

境内

明治神宮遥拝所

社殿

中門

垣内に社殿

本殿

本殿左の境内社

本殿右の境内社


【 川田神社 (甲賀市水口町)(印刷用ページ) 】

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