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二之宮神社
にのみやじんじゃ
滋賀県野洲市西河原55  Zenrin Data Com Maps display !!


亀甲

兵主大社末社

御祭神
天兒屋根命 配祀 經津主命

境内 式内社
近江國野洲郡 比利多神社 素戔嗚尊

滋賀県野洲市にある。
野洲駅の北4Kmほどの西河原に鎮座。
小学校の前、道を挟んで、南西向きに境内入口がある。

石橋を渡り、鳥居をくぐると、広くて明るい境内。
広い参道の奥に、新しい拝殿が見える。
拝殿の後方には、垣に囲まれて本殿。

当社境内は、溝状遺構を持つ古代庭園として、
市の指定文化財になっている。
境内の案内によると、遣水を配した庭園で、
円島等が浮かんでいたらしい。

社伝によると、欽明天皇の御代の創建。
養老二年(718)に初めて社殿を造営したという。

現在は、当社の北1Kmにある兵主大社の境外末社となっている。
兵主大社にも、当社同様の池水庭園があり、
そちらは国指定名勝となっている。

当社境内には、祠の境内社が二つあり、
どちらも高い位置に垣に囲まれて本殿が鎮座。

その一つは、参道左手にある小安神社(玉依姫命)。
もう一つは、参道の左手奥に鎮座する比利田神社(素戔嗚尊)。
この比利田神社は、欽明天皇六年、豊積荘に降臨し
比留田字上山(浅殿神社か?)に鎮座されたが、
建久年中(1190〜1199)に比留田の地から遷された神社で、
式内社・比利多神社の論社の一つ。

口伝によると、比利多神社は本兵主とも呼ばれ、
養老二年、兵主大神が八ツ崎浦に降臨された時
比利多神が、兵主郷へ迎えたという。

上記の二境内社の他にも、幾つかの境内社(石祠)が存在する。
円島の上に祀られた愛宕神社、その隣に大神宮、
さらに、明治に合祀された天皇社、上ノ道三神、天満宮の三社。

当社の神紋について。
本殿の屋根瓦に桐の紋が付けられていたが、
神紋なのかどうかは、実は分からない。

後に『滋賀県神社誌』を入手し、確認すると
当社の神紋は、亀甲紋らしい。
詳細な図案は不明なので、シンプルな亀甲紋を掲載しておく。


鳥居

社殿

境内

本殿

本殿

円島の愛宕神社

小安神社

比利多神社

比利多神社

比利多神社

市指定史跡
 二之宮神社境内管理者 二之宮神社
製作期 平安時代後期
 二之宮神社は、野洲市大字西河原字宮ノ内に所在する、西河原区の鎮守である。 社伝によると、祭神は天児屋根命と経津主命の二座で、欽明天皇の世に鎮座し、養老二年 (七一八)に初めて社殿を造営したと伝える。現在は、(式内)兵主神社の末社で、境内 には明治に合祀された天皇社、上ノ道三神、天満宮の三社、それに小安神社、大神宮、 愛宕神社と建久年中(一一九〇〜一一九九)に比留田より移ってきたという(式内)比利 田神社が鎮座している。
 境内地(一一、二八〇㎡)の北東から西側にかけての複雑な溝状遺構に最初に注目され たのは、庭園文化研究所所長(故)村岡先生であった。先生は、県下の未指定庭園調査の 成果報告である『滋賀の庭園』第三集(昭和六〇年)において、「…樹林地の地形にかな りの起伏があり、流れがあって小さな中島も認められる。…現状でははっきりしないが、 案外古い遣水跡かも知れない。」と指摘され、その後も『滋賀の美−庭−』(京都新聞社、 昭和六〇年)に紹介されるなど、衆目より古式の庭園として注目されることとなった。
 これを受け市教育委員会では、境内の測量・試掘調査を、昭和六二年に実施した。この 結果、護岸に粘土を敷いて貼床とし、一〇cm前後の河原石や割石を不規則に貼った、遣水 状の溝、直径七m余の円島、一辺六m余の隅丸方島、それに貼り石を伴わない複雑な溝な どの遺構が発見されるにいたった。出土遺物は、土師器の皿類がほとんどで、その年代は 粘土の貼床層の下層で一二世紀〜一四世紀前半、上層で一四世紀後半〜一六世紀を中心に 出土した。遺構の性格は、円島・隅丸方島が経塚や火葬塚といったものである可能性もあ るが、これに続く曲水の溝が、社殿の方位と一致し、遺物に日常雑器ではなく皿類が多い など、鑑賞ばかりでなく、神社祭祀とも深く係わる庭園であったことを示すものといえる。
 このように本境内は、一般的な庭園とも全く趣が異なるものであり、日本庭園史上に新 たな庭園遺構の存在を提示するものとして貴重である。

−境内案内板より−



【 二之宮神社 (野洲市)(印刷用ページ) 】

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