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雄略天皇
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雄略天皇
ゆうりゃくてんのう

別名
大長谷若建命:おおはつせわかたけのみこと
大泊瀬幼武天皇:おおはつせわかたけのすめらみこと
……
  • 第二十一代天皇。允恭天皇の第五皇子。第二十代天皇・安康天皇の弟。母は忍坂之大中津比売。 諱は『古事記』では大長谷若建命、『日本書紀』では大泊瀬幼武天皇。

  • 『日本書紀』によると、兄・安康天皇が眉輪王(妃の中帯姫命の子。妃になる前に仁徳天皇の御子・大草香皇子との間に生んだ)に殺された後、 眉輪王を殺した。 また、安康天皇が後任としていた従兄の市辺押磐皇子を狩りに誘い出し殺した。

  • 長谷(泊瀬)の朝倉宮にて統治された。

  • 『古事記』によると、大日下王の妹・若日下部王を皇后とするが御子は無し。
    また、都夫良意富美の娘・韓比売を娶って、白髪命(後の第二十二代清寧天皇)、妹若帯比売命を生んだ。
    白髪命の御名代として白髪部を定め、また長谷部の舎人、河瀬の舎人を定めた。
    この時、呉人が渡来したので飛鳥の呉原に留め置いた。

  • 『日本書紀』によると、大草香皇子の妹・幡梭皇子(仁徳天皇の皇女)を皇后とした。
    また葛城円大臣の娘・韓媛を妃とし、白髪武広国押稚日本根子天皇(後の第二十二代清寧天皇)、稚足姫皇女を生んだ。
    また吉備上道臣の娘・稚姫を娶って、磐城皇子、星川稚宮皇子を生んだ。
    また春日の和珥臣深目の娘、童女君を娶り、春日大娘皇女を生んだ。

  • 河内に幸行の時、天皇宮殿に似せた舎の志幾の大県主を服従させ、謝罪の品を若日下部王への妻問の結納の品とした。

  • 三輪川のほとりで衣を洗う美しい娘・引田部赤猪子に出会い、宮中に召すので他の男に嫁ぐなと言ったが、その後八十年経過した。 そこで赤猪子は多くの献上品をもって参内した。前言を忘れていた天皇は驚き四首の歌「志都歌」と歌った。

  • 吉野の川のほとりで美しい童女よ出会い求婚した。 後日、童女と出会った場所に立派な御呉床を立て琴を弾き、童女に舞を舞わせ、歌を詠んだ。

  • 阿岐豆野に狩りに行った時、虻が天皇の腕に食い付いたが、すぐに蜻蛉(トンボ、あきづ)が飛んできて虻を咥えて飛んでいった。 そこで詠んだ歌により、阿岐豆野という地名となった。

  • 『古事記』によると、雄略天皇が葛城山に登ったとき、天皇の行列と全く同じ装束の一行に出会った。 天皇が怒って矢をつがえると相手も矢をつがえた。 そこで天皇が名のりを求めると「悪事も一言、善言も一言で言い離つ神、一言主神である」と名のった。 天皇は畏怖して、矢や弓、百官の衣服を脱がせて神に献上し、神は長谷の山口まで天皇を見送った。
    『日本書紀』では話の発端が天皇の狩りである。一事主神は長身でかつ天皇と同じ姿であった。 狩りに際しては双方とも譲り合いの精神で行なわれ、百姓は雄略天皇を有徳の天皇と讃えたとある。

  • 百済を助け、高句麗を対抗した。

  • 百二十四歳で崩御。御陵は、河内の多治比の高鸇。

雄略天皇 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)

葛城一言主神社奈良県御所市大字森脇字角田432

【 雄略天皇:玄松子の祭神記(印刷用ページ) 】

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