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櫛代賀姫神社
くしろかひめじんじゃ
島根県益田市久城町963
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式内社 石見國美濃郡 櫛代賀姫命神社 |
島根県益田市にある。
益田駅の北3Kmほど、益田川の河口近くの久城町に鎮座。
丘の上の保育園の横、というより境内に保育園がある。
全国どこでも、境内に幼稚園・保育園のある神社は多いのだ。
そのせいか、境内入口は広場のようになっている。
鳥居をくぐり、参道を歩くと、
参道に対して斜めを向いた、赤い屋根の社殿。
変わった庇が特徴的な拝殿の後方には、
緑(銅)の屋根の本殿が鎮座。
本殿を囲う垣の左右に、門が付けられているのも珍しい。
参拝は、九月の土曜日の午後。
平日ならば園児で賑やかな境内だと思うが、
日没近い時間は、少し寂しい。
社伝によれば、
往古、大浜大谷浦に鎮座していたという。
この浦に、女島・男島・中身島という島があり、
神代に、この島へ天降ったという。
後、聖武天皇天平九年(737)九月、官の命により社殿を造営。
大同元年(806)石見観察使、藤原緒継の霊夢のより、
現在地久城明星山に遷座。
その後、絶社となったが、承和七年(840)八月に再建された。
祭神は、櫛代賀姫命。
この地方を開拓した櫛代族の祖神。
同じく石見国式内社である、浜田市の櫛色天蘿箇彦命神社は、
石見の海岸部を根拠地とした櫛色一族が、その祖を祀った神社だが、
櫛代族と櫛色族は同じものだろうか、どちらも「クシロ」と読む。
中古、応神天皇を合祀したため、「はまのやはた」と呼ばれているようだ。
当社の特徴的な神事に、獅子舞・角力神事・針拾神事がある。
獅子舞は、久城山へ遷座の折、雌雄二頭の獅子が先導したという故事によるもの。
角力神事は、当地へ遷座の時、大浜浦と大谷浦の人々が、
自分の浦へ遷座しようと争い、相撲で決定したという故事による。
針拾神事は、相撲で決定した後にも争いが絶えなかった時、
一人の老婆が、これを諭したが、その際に大切にしていた針を失い、
狂ったように針を探していたという故事。
このように、遷座の顛末を神事として保存しているのも興味深い
案内石碑にも、上り藤に久の字の紋が付けられていた。
どうやら、益田越中守の家紋らしい。
境内左手に、立派な境内社が一つ。
境内社として、
『平成祭データ』には、大元神社と祖霊社が記されている。
また『神国島根』には、大元神社と安国社が記されている。
ということで、たぶん、この境内社は大元神社だと思う。(自信はない)
鳥居 | 境内社 |
社殿 |
本殿 | 本殿 |
−社前案内石碑より− 祭神は櫛代族の祖神にして天平五年丑五月管長の命により社殿建立、大同元年石見観察使、藤原緒継が鎌手大浜浦より現在地久城明星山に御遷座、人皇第五十四代仁明天皇の承和七年申八月再建爾来延喜式所載の神社として朝野の尊崇深く、殊に益田氏七尾城入城後は崇敬厚く、人皇第百六代正親天皇の天正十二年甲申益田越中守全昌公社殿を再建し社領十二石を奉納せらる。 其の後も社殿の造修築数度ならず、人皇第百二十代仁孝天皇の御代文政六年石見国二十一個村の総氏子により本殿其の他の大修築をなし益田地方及美濃郡、鹿足郡に渉る総氏神として尊崇競られる。 大正八年三月六日旧郷社昭和十二年旧県社となる。 −『平成祭データ』− |