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椎葉圓比咩神社
しひはまろひめじんじゃ
石川県羽咋市柴垣町37山8−37  Zenrin Data Com Maps display !!


五三の桐

式内社 能登國羽咋郡 椎葉圓比咩神社
旧郷社

御祭神
椎葉圓比咩命

石川県羽咋市にある。
七尾線・羽咋駅の北7Kmほどの柴垣町に鎮座。
羽咋駅から西へ進み、249号線に入って北上。
羽咋川を渡り、気多大社前を通過して柴垣町へ。
249号線から西へ、柴垣海岸方面へ分岐する道があるが
その分岐点付近にm249号線に面して西向きに境内入口がある。

参道入口は249号線の西側にあり、
「郷社椎葉圓比咩神社」と刻まれた社号標が立っている。
参道入口から東へ進み、249号線を横断すると境内入口。
境内入口には「延喜式内椎葉圓比咩神社」と刻まれた社号標。
参道を進み鳥居をくぐると、昼なお暗い参道。
階段を上り、右へカーブするように参道には幾つかの石碑が立っている。
さらに参道を進むと社殿のある境内。
参道から見ると社殿は横向きで、地図上では北向き。
昔は西の日本海を向いていたが海難事故が多かったため
天明六年(1786)建て替えて向きを変えたという。

拝殿は雪囲いのある瓦葺入母屋造。
本殿は拝殿の後ろに覆屋が接続している形式で確認できなかった。

社殿の前に「柴垣親王塚古墳」の説明板があり、
境内後方に前方後円墳があるようだ。
その説明には墳丘の表面には人の頭ほどの葺石(ふきいし)が
全面に敷かれているとあり、本殿の後の斜面にそれっぽい石がある。
これが、古墳の葺石だろうか。

社号の読みは『石川県神社誌』などには「しいはまるひめ」、
『全国神社名鑑』には「しいばのつぶらひめ」、
『式内社調査報告』には「しひはまろひめ」とあり、
他にも「しいしはのまとらひめ」「しひのはまどかひめ」など。

創祀年代は不詳。
社伝によると雄略天皇の御代の勧請。
式内社・椎葉圓比咩神社の論社の一つ。

寛延年中、圓井町の同名社と式内社として論争があったが
のちに和解して、両社とも式内を称することにしたらしい。
鎮座地名の柴垣は「椎葉」が変化したものらしく
圓井は「圓比」が変化したものと考えると、なかなか面白い。

中古、徳田の領主・土田弾正忠広、次いで代官館中将監の崇敬篤かった。

明治六年、石川県令によって、気多大社の附属社となり、
鎮座地名から柴垣神社と改称させられたが、
明治十二年、椎葉圓比咩神社に戻し、明治十六年郷社に列した。

祭神・椎葉圓比咩の事績は不詳。
出雲系の気多大社との関連からか、櫛奈田比咩命とする説もあるが、
当地方に勢力のあった氏族の氏神と考えられ、地域に多い大小の古墳も
本社を奉斎した氏族に関係するものとされている。

しかし、明治以後は『日本書紀』にある
反正天皇の皇女・圓皇女(『古事記』では都夫良郎女)であるとされ、
本殿後方の古墳は皇女の陵墓であるという。
また、柴垣の地名は、反正天皇の柴籬宮(柴垣宮)に関係があるいう。

境内入口の鳥居の前にある金属製の灯籠に桐紋が付けられていた。
『全国神社名鑑』には神紋が記されておらず、
桐が当社の神紋かどうかわからないが、とりあえず掲載。
社号から椎の葉の紋を期待していたが。

参拝は10月の天気の良い日。
境内の外は明るいのに参道は暗くひっそりとして
気温も少し低い気がするのは、茂っている木々のせいだけじゃないような
そんな雰囲気のある神社。


社頭

参道入口

境内入口

鳥居

灯籠に桐紋

参道

昼なお暗い参道

境内

本殿覆屋

社殿

境内

本殿後の石

社殿

柴垣親王塚古墳
〜石川県指定史跡 柴垣古墳群〜
指定年月日昭和46年2月10日
所 有 者柴垣町会
管 理 者羽咋市

 この古墳は、全長35mの前方後円墳で、墳丘の表面には人の頭ほどの葺石(ふき いし)が全面に敷かれています。
 後円部には、南西に入口を持つ横穴式石室が大きな石を使って造られていました。 また、古墳前方部の葺石の間から、甕や壺の破片が確認されています。
 出土した土器片から、この古墳は古墳時代後期(6世紀中頃)に、柴垣周辺を支配した 権力者の墓と考えられています。


確認された横穴式石室内部

−境内案内−



【 椎葉圓比咩神社 (羽咋市柴垣町)(印刷用ページ) 】

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