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頤氣神社
いけじんじゃ
長野県長野市松代町西寺尾字柳島1006
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長野県長野市の西寺尾に鎮座。
上信越自動車道の長野I.C.の西、35号線を越えて数百mの場所。
境内入口は、南西側。
道路に面して入口があり、少し奥に木造の鳥居が建っている。
入口の右脇には「延喜式内頤氣神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると、細く長い境内。
入口から社殿まで100m近くあるかもしれない。そんな境内。
境内には、多くの石祠や石碑が祀られている。
石祠の詳細はわからないが、
石碑には、水神、山神、庚申などと刻まれている。
境内の中程、右手には古峯神社(日本武命)。
少し進んだ左手には農産神社(保食神 大宜都比賣神 和久産巣日神)。
さらに進むと、当社社殿が鎮座。
拝殿は、入母屋造平入の堂々とした社殿。
拝殿の後方、石組の上には流造の本殿がある。
社殿の左右には、信濃の神社らしく御柱が建てられている。
本殿の左手に、境内社のものらしき石鳥居が建っており、
本殿の左右にも境内社の祠があるが、社名は未確認。
資料には、天神社(菅原道眞)があるらしいのだが。
参拝は、晴天の秋の午後。
日射しが強くて、砂地の境内がちょっと眩しかった。
以前は諏訪大明神とも称された神社。
現在の社号の頤氣神社は、「いけじんじゃ」と読むが、
一般には「いきじんじゃ」と呼ばれているらしい。
更級郡池郷鎮座の式内社・頤氣神社の論社の一つ。
祭神の池生神は、諏訪明神の御子神十三柱の一柱。
池郷の地名は、この神名から取られたか、
池郷に坐していたので池生神と呼ばれたのだろう。
社伝によると、雄略天皇三年(458)正月二十日、
字池清水の地に創祀されたが、洪水により流出。
大同元年(806)八月二十日、坂上田村麻呂が、字清畑に再建。
再度流出したらしく、
養和元年(1181)六月十日、木曽義仲が、字古川漆に再建。
武門の崇敬篤く、南北朝時代、新田義貞が当社に祈願するところあって
建武元年(1334)三月二十日、現在地に移転再建。
その後、兵火や洪水によって、しばしば焼失・流出と再建を繰り返し
文政三年(1820)八月二十七日、
氏子によって再建されたのが現在の社殿。
明治六年、村社に列した。
昔、当社では、毎年正月十五日夜、鳥追神事が行われ、
「燕(ツバクロ)ドンホーイホーイ、佐渡島へホーイホーイ」と
村内を踊り歩いていたという。
その起源は、慶長四年(1599)森右近大夫忠政が海津城城主となったが
土地の百姓を、父の仇として、臣下の津葉蔵人に命じて苛酷な支配を行い、
人民300名が磔になって殺された。
人々は当社に集まって、この主従が他国に移ることを祈願し
津葉蔵人を燕殿(ツバクロドン)と呼び替えて鳥追神事を行った。
すると、慶長八年(1603)、この主従は佐渡島へ国替えとなったという。
拝殿には諏訪梶の紋が染められていたが、
拝殿屋根は立梶の葉の紋が付いていた。
また、本殿の屋根には桜らしき花の紋があったが良くわからない。
社頭 |
鳥居 | 境内 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
本殿左の境内社 | 本殿右の境内社 |
社殿両脇に御神柱 |
農産神社 | 古峯神社 |
御神木 | 石碑 |