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和気清麻呂 |
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和気清麻呂
わけのきよまろ
関連祭神名
和気広虫:わけのひろむし
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わけのきよまろ
関連祭神名
和気広虫:わけのひろむし
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- 天平五年(733)〜延暦十八年(799)。奈良中期より平安初期にかけての官人。
祖先は垂仁天皇の御子・鐸石別命。本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ)、
また藤野別真人(ふじのわけのまひと)を称し、和気宿禰さらに和気朝臣に改姓された。
- 備前国藤野郡に生まれ、その後、孝謙(称徳)天皇に近侍していた姉・和気広虫の引きによって、
おそらく兵衛(とねり)として出仕したものと思われる。
藤原仲麻呂の乱の功績により、天平紳護元年(765)藤野別真人を賜姓され、 広虫とともに称徳天皇に重用されて、従五位下近衛将監となる。 - やがて皇位を望んだ僧道鏡の事件にさいし、姉に代わって宇佐八幡に使し、神託をうけてこれを阻止した(字佐八幡宮神託事件)。
そのため一時別部穢(きたな)麻呂と名をかえられ、大隅国に流されたが、 光仁天皇の即位とともに京に召されてもとの従五位下に復し、 桓武天皇の側近として活躍した。 - 長岡京造営には陰の役割をはたし、従四位下より正四位下に昇叙し、
ついで、平安京造営には造宮大夫として事業をにない、従三位に叙せられ、公卿に列した。
この間、摂津大夫として水利事業を進め、民部大輔として「民部省例」を撰するなど、 民政にあかるく、さらに美作・備前両国国造に任ぜられ、故郷の百姓の利益にも力をつくした。 - 延暦十八年(799)姉広虫についで没した時は民部卿・造営大大・従三位で、正三位を贈られた。
人となり高直、匪躬の節ありと評された。
【 和気清麻呂:玄松子の祭神記 】